イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

なんで、私が○大に!(こころの防衛機制を考える 3/15)

2011-01-22 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 時どき四ツ谷に行くのだが、その時、いつもある進学予備校の前を通る。そして「なんで、私が〇大に!」というポスターをいつもちらっと見る。

 生き甲斐の心理学で学ぶ、自己実現の3つの問いかけの一つ、何のために生きているのか?の問いかけにちょっと似ているので惹かれるのかもしれない。ポスターは普通の生徒が〇大に入れた、素晴らしい受験教育システムと言いたいのだろうが、東大に入った生徒が、自然につぶやいた言葉として実感があるのだ。

 自分でも大学はともかく、青春時代を何とか乗り切って、就職した時。長年勤めた会社をわざわざ辞めて新しい世界に飛び出た時。・・・そういえば、最近太極拳のサークルを立ち上げようとしている時。そんな時に、なんで、私が〇〇に!と、その不条理というか何かにたじろぎ、つぶやきそうな言葉だ。

 昔、読んだカフカの変身の主人公のように、ある日突然巨大な虫になったりする。そんな極端なこともあるかもしれない(実際に私の場合もあった)。しかし、理屈で割り切れない要素があるにしろ、心理学の理論・14の防衛機制で思索すると、隠れていた自分の一面が見えてくる。

 例えばある時期、私は企業でマーケティング専門家を目指した。

 これを、14の防衛機制の中の補償というもので思索をしてみる。補償は劣等感情を克服するこころの流れで、健全なものもあれば、不健全なものもある。私の場合は、やはり父や祖父などへの劣等感から、それを克服したいというこころの流れがあったと思う(健全だったと思う)。ただ、動力源はそんなものかもしれないが、実際にその世界を生きると、別のものもどんどん見えてくるのだ。

 生き甲斐の心理学のテキスト99ページには、次の素晴らしい言葉がある。引用させていただく。

 「人はいつも心を平安にしていたいものです。自分の心を、平安感(不安のない状態を平安といいます)を意識して大切にすると<人は考えた通りの人間になる>という古来の格言のように自然とそうなっていくものです。」

 蛇足ながら・・・今年の私の大テーマは「ストレスの中で平安に!」かな?また、時に自己肯定・他者肯定になっているかを思索するのも良いかも。

こころの防衛機制を考える 3/15

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ゲンを担ぎ合格を!・・・でも、ちょっと注意してね!(こころの防衛機制を考える 2/15)

2011-01-21 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 多摩動物園には、オラウータンがいる。この受験シーズンになると落ちないということにげんかつぎする催しが行われる。今年も沢山の絵馬などがかかっているのだろうか?

 昔から、受験となるとゲンを担ぐひとを見かけるし、自分もそうである。昔はどういう意味があるのか、表札盗む人がいたりした。あれはいったい何だったんだろう。

 さて、このゲンを担ぐということも、こころの防衛機制の一つ摂取なのだろう。弱い自分の中に自分以外の何かをとりいれて、こころの安定を図るということだ。お守りを持ったり、大切な人の形見を身に付けたりするのも、同じ摂取だと思う。

 窮地に立たされたときや勝負のとき、こうしたお守りをもったり、ゲンを担いだりで、何となくこころの平安を保ち、ことを成功させたことも多い。馬鹿にできないのである。

 ただ、苦い経験もある。私が大学受験のとき、母が作ったトンカツを体調が悪いのに食べて、受験の時に下痢で悩まされたことがあった。ゲンを担ぐのはいいが、無理はいけない。現実を忘れてはいけない。

 もうひとつ。ゲンを担ぐより、受験なら、単語一つでも覚えたほうが良いときもある。

 それと、ゲンを担ぐということも確かにあるが、祈りも忘れてはならないと思う。

 こころの防衛機制を考える 2/15

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反発心の良かったこと、悪かったこと!(こころの防衛機制を考える 1/15)

2011-01-20 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 大学を卒業し、コンピュータ会社に就職し、しばらくして営業職についた。自分が営業に向いていると思う人はまわりには殆どいなかった。自分も営業に向いているとも思わなかった。自他共に認めていた。

 何故営業を希望したたかは、尊敬する従兄弟がやはり工学部を卒業して営業になり、その面白さをいろいろ語ってくれたおかげである。単純に影響されたのだと思う。そして、向いてない仕事に挑戦するというような、変な反動形成がどこかにあったと思う(成育史から生まれた、無意識な理想として)。

 営業になって、一年は、もう大変だった。コンピュータを売っているはずなのに、一ヶ月かけても持ち運び用のかばん一つしか売れなかったこともある。しかも、東京生まれ東京育ちなのに、商売の都大阪での商い、値段交渉もロクにできないので途方に暮れることも。

 ただ、技術屋さん相手の商売だったので、しばらくすると、楽しくなった。そして、変な関西弁もしゃべり、商品も良かったので、4-5年して爆発的に売れるようになり、営業で1-2を争う実績まであげた。反動形成のお陰なのだろう。

 そんな経験をしてから、いつごろだったか、従兄弟と話す機会があった。「営業は人間関係が大変というが、意外と好きな人を選んで行ける。社内で仕事をする場合は、人を選べず、また長期お付き合いをするので、営業よりよっぽど人間関係に気を使うね。」そんな話を聴いた。きっと、やんわりと、アドバイスをしてくれたのだろう。確かに、私はまだまだ人間関係が上手とはいえない素人営業マンだった。仕事は、人生と同じように本当は奥の深いものなのだ。

 そうしたアドバイスにもかかわらず、営業で良い成績をおさめた経験は、自分の過信となった。そんな自分に、人間関係の大切さを教えてくれる人が周りにいたが、それに反発するという反動形成をしてしまい、成長の機会を失ってしまった。変な話ではあるが、実際の話である。

 心理学を学ぶと、必ずフロイトの14の防衛機制などを学ぶ。不思議なこころの流れ方を知っていると、それだけで豊かに生きることが出来ると思う。ただ、現場にどっぷり浸かっている本人にとっては見えないものである。螺旋状に人生は上昇すると、テキストにあるが、本当にストレートに成長することはない。

 こころの防衛機制を考える 1/15

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こっちか、あっちか!(自分との和解 10/10)

2011-01-19 | 第五章「和解と平和」

 昨日は、美しい冬の十五夜お月さまを見ながら、多摩郊外の公園を散策した。私は都会育ちであるが、親戚が武蔵野に住んでいたこともあり、少しは昔の郊外の風景を知っていたが、一緒に行った友人のはなしでは、かなり昔の風景をとどめているとのことであった。

 さて、自分の青年時代までの成育史をいろいろ眺めて来た。気がついたのは、今の自分の様々な起源がそこにあるということだ。そして、今ここで、何かを決め行動しようという自分を応援してくれているように思う。

 何かを信じることで、人はこころの安定を得るのは確かであるが、自分を信じるということの意味も少し理解を深めたようである。何かを信じて、こっちか、あっちかを決める。

 自分を信じろと良く言われる。でも、その言葉にはいつもちょっと違和感を持っていた。自分の身体や経験、能力は信じるに値するか?≪ちょっとね≫である。

 ただ、不思議なコトにまもなく還暦なのであるが、60年近くの期間生き抜いてこられたのは何だったか。あるいは起源をもとめ、自分の人類としての祖先(アフリカ出発を考えると2000世代くらいか)、さらに生命体の起源を遡れば気が遠くなる(40億年くらい)。その不思議な駅伝競走(誰か祖先が次世代にたすきを渡さねば自分は存在しなかった)を想うと胸が熱くなる。

 人が、身体、成育史からなるこころ、そして魂からなるものとすると、魂だけが信じるに値するように思う(私は、魂とは愛そのものの生命体で死んで身体から離れる純霊というカトリック神学者(J・ドージャの説を信じている)。他者を信じるというのも同じ理路からすると、魂なのであろう。自分にとっての他者は、身近な人達もいれば、死者もいる。神仏もいる(私はカトリックなので三位一体の神ということになるのだが)。

 信じられる自分とは何か?十五夜お月さんは教えてくれているようだ?

 自分との和解 10/10

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16歳の、ぼくって何だろう!(自分との和解 9/10)

2011-01-18 | 第五章「和解と平和」

 この数日、青春時代のことに想いを寄せている。自分の成育史をエリクソンやカールロジャースの人格形成論で推し量ったりしてきた。でも、時どき空しくなる。何か大切なことが抜け落ちているような気もする。今日は、青春時代の原点のような16歳のころを振り返ってみよう。

 高校1年。16歳のころ。私は、四ツ谷駅の近くから毎日赤坂見附の高校まで歩いて通った。外堀の美しい景色を見ながら迎賓館の横を通り40分くらい歩いて通学した。祖父は、高校の先輩でもあったが、祖父が通ったころは、校舎が日比谷にあり、一時間以上かけて通学したという。そんなことが頭にあったかもしれない。

 そんな風に徒歩通学していると、ある日先生に声を掛けられた。古文のT先生であった。T先生も地下鉄に乗らずに、時どき徒歩で赤坂見附まで歩かれるという。源氏物語の一人者と言われたその先生に興味をもち、源氏物語の自主講座に出たこともあった。

 担任の先生は数学のO先生であった。その先生の講義は変わっていて、最初の一学期は8割がた雑談だけであった。先生の学生時代のはつ恋の話、数学者の逸話・・・テキストを勉強しないと、逆に生徒自身が心配になって自習するので、教え無い方が良いというのだ。

 生物の先生はK先生であった。実は昨日、高校生のころが気になって、内田樹先生(実は私の高校の1年上級)のブログを拝見していたら、このK先生が登場する逸話が載っていた。内田樹先生のブログはリンクフリー(とても興味ある情報時代の著作物に対する見識をお持ちで)で、一度見て頂ければと思う。

 その中で内田樹先生が久しぶりで怒られた先生がK先生と書かれていたが、私も中学校2年以来初めてはK先生であった。私は教室の最前列に座って、まじめにノートをとっていた。先生がニンジンの絵を描いて説明されていたので、ニンジンの絵を描いた。そしたら、こんなニンジンまでノートにとるな!と怒られたのだ。

 私は、今でも要領よくノートをとることが下手なのであるが、その時もそうだった。もう既に個性化してしまったのかもしれない。

 16歳。中学まで地学部であったので、高校も地学部に入りたかったが、高校にはそんなサークルはなかった。シャイであり作ればよかったのに作らなかった。学校の裏には弓道場があり素敵な先輩の勧誘があり、弓道部に入ろうか迷った(結局は入らなかった。とてもシャイであったのだ)。その中で中学から一緒のN君が弓道部に入ったことを知った。

 そのN君が、ある日家の近くの線路で自殺した。優秀なN君が何故死を選んだのか、その時も謎であったが、今でも謎である。顔見知りではあったが、それほど親しくもなかったが。ただ、N君のお通夜に行った時のことが今でも思い出せる。

 私が尊敬する祖父も高校一年の冬に亡くなった(この話は最近書いた)。

 逆に、弟が生まれた(16歳違いである。妹は3-4歳の差であったが、凄い差の弟ができたのだ)。そういえば、弟が生まれるので母がPTAの仕事を辞めることになり、担任のO先生がクラスで、辞める理由を言った。何となくばつが悪い気がした。思春期でシャイなのであった。

 他にも、初めてのことがいくつかあった。 授業で初めてメガネを掛けたこと(どきどきした)。文学少女のKさんと一緒に現代国語の先生と赤坂の喫茶店に入ったこと(中学の時と違って、少し大人になった気分)。中学の時に記念にいただいた新約聖書を読み始めたこと。始めて知り合ったクラスメートと政治の話や、宇宙の話をしたこと(私は、この時無神論者を始めて知った)。体育祭や文化祭、生徒会などのこと。

 16歳の時。44年くらい前のころ、そのころから今は随分変わった。N君だけでなく既に他界された方も多い。少なくとも、年をとってしまった。

 一緒に思い出を語りあうのではなく、死者に語りかけることが増えたように思う。死者との語らい、この年になると少しずつ実感できる。

 さて、高校一年のころには全く想像もしていなかった事件が、その二年後に起こる。高校のホームページを見ても一言も触れられていない事件。学園紛争であった。怒号の中での卒業式。ある先生は学校を去り、逆にある先生は残った。それぞれの理想を胸にしてだろう。私達も同じように去った。

 16歳の一年、大方のものは今では過去の闇の中に埋もれてしまった。ただ、滅びなかったコトも確実にある。 私は何だろう。私の生き甲斐は何だろう。私は私を大事にしている?この三つの問いかけの中から浮かび上がってくる。

  自分との和解 9/10

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