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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

こっちか、あっちか!(自分との和解 10/10)

2011-01-19 | 第五章「和解と平和」

 昨日は、美しい冬の十五夜お月さまを見ながら、多摩郊外の公園を散策した。私は都会育ちであるが、親戚が武蔵野に住んでいたこともあり、少しは昔の郊外の風景を知っていたが、一緒に行った友人のはなしでは、かなり昔の風景をとどめているとのことであった。

 さて、自分の青年時代までの成育史をいろいろ眺めて来た。気がついたのは、今の自分の様々な起源がそこにあるということだ。そして、今ここで、何かを決め行動しようという自分を応援してくれているように思う。

 何かを信じることで、人はこころの安定を得るのは確かであるが、自分を信じるということの意味も少し理解を深めたようである。何かを信じて、こっちか、あっちかを決める。

 自分を信じろと良く言われる。でも、その言葉にはいつもちょっと違和感を持っていた。自分の身体や経験、能力は信じるに値するか?≪ちょっとね≫である。

 ただ、不思議なコトにまもなく還暦なのであるが、60年近くの期間生き抜いてこられたのは何だったか。あるいは起源をもとめ、自分の人類としての祖先(アフリカ出発を考えると2000世代くらいか)、さらに生命体の起源を遡れば気が遠くなる(40億年くらい)。その不思議な駅伝競走(誰か祖先が次世代にたすきを渡さねば自分は存在しなかった)を想うと胸が熱くなる。

 人が、身体、成育史からなるこころ、そして魂からなるものとすると、魂だけが信じるに値するように思う(私は、魂とは愛そのものの生命体で死んで身体から離れる純霊というカトリック神学者(J・ドージャの説を信じている)。他者を信じるというのも同じ理路からすると、魂なのであろう。自分にとっての他者は、身近な人達もいれば、死者もいる。神仏もいる(私はカトリックなので三位一体の神ということになるのだが)。

 信じられる自分とは何か?十五夜お月さんは教えてくれているようだ?

 自分との和解 10/10

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