ひろし曽爺1840の花鳥風月ブログ

世界遺産の島・宮島がある廿日市市~写真と三枝弘の動画を投稿し皆さんとブログ交流を楽しんでいる82歳の高齢者です!

☆サヨウナラ ・ 私の生まれ育った =西岩国= ☆

2007年02月28日 13時05分47秒 | 広島県廿日市市大野浦~発信

昭和16年にこの西岩国で生を受け昭和22年戦後には珍しい幼稚園入園昭和23年から6年間西の小学校昭和29年から、3年間西の中学校昭和32年から3年間、西の高等学校昭和35年卒業し地元に就職、

今回初めて岩国を離れ、老後の新天地に引っ越す事になり思いでと友の多い学校を訪ねてみた。  

    

妙見堂地元の氏神様で=妙見さん・妙見さん=と呼ばれ今も信仰されています。

 子供の頃この妙見さんの下を流れる錦川で、フナやハエ釣りをよくしたものです。

           

這えば立て立てば歩めの親心

 子供の成長は、親ならば誰でも願うものでしょう。

子供は親の愛情に包まれて、心も体もどんどん成長していくのです。

 這い始めた!立った!歩いた!言う親の喜びそして感動。

 いくら一人前になったと親は親、子は子なのです。

 子の幸せを願う親の心を知る子でなければなりません

私も親の心を知る子でありたいし、子も孫もそうあって欲しいと願います  

    ①現在の西岩国市内霞む山が、お城山・頂上に岩国城・その下に此処からは見えないが錦帯橋がある。

    

②現在の「けんしん幼稚園」

     

③西光寺=お寺は改修され新しくなっているが、当時はお堂の中が教室となっていた。境内は当時のままですが、当時広く感じたが今見ると狭いな~。

     

④当時5,6才の園児のみが通園していたと記憶しているが、今の少子化の世と違い大勢いたんだな~と思う。

記憶によれば「おゆうぎ会」でおサルの籠やを歌って踊り、写真を撮ってもらったのだがアルバムを探したが見当たらない。残念

     

⑤現在の岩国市立岩国小学校正門以前は、岩国学校の方にあり現在も石柱二本は残してある。

     

⑥当時の木造建築寄棟瓦葺校舎の正面玄関=寒い冬には教員室のみ石炭ストーブが炊かれ、児童は「おしくらまんじゅう」で寒さを耐えた記憶がよみがえる。

     

在学中の校歌⑦当時学校が出来てすでに八十余年も経っていたのだ!

意味が良く分らず、まる暗記で覚え歌っていた

⑧歌と言えば・・・ 睦み会の歌

 私が子供の頃、近所の人たちが集まり月一回「たのもし講」と言うものがあり、金額を入札し高入札金の人がその月の落札者でお金が利用できた。

その会の歌錦の旗風なびかせて彼岸のそのは遠くともカイナためすはこの時ぞ~共に睦みていざ行かん・・・・作詞作曲不明

     

⑨現在の岩国市立岩国中学校の正面玄関=学校は小川を挟み、グランドと校舎が分かれていた。

      

⑩私が入学した時は、講堂はまだ工事中ですべて行事は外で行われていた。在学中に完成、盛大に文化祭をした記憶あり。

     

⑪岩国中学校校歌   

    ⑫正面に見えるのが現在の中学校校舎右手に見えるのが、改修はされているが当時の面影を残す講堂。

以前グランドの左側にプールが出来、体育の時間は水泳が多く楽しかった思い出がある。

     

⑬現在の山口県立岩国工業高等学校の正面玄関

     

⑭校舎は石段を上り少し高い所にある。右手はテニスコートと奥に学生寮があった。

 機械科、電機科、工業化学科、金属科の四科があった。

      

岩国工業校歌47年前の卒業式に歌って以来、今日3月1日に口ずさむ。就職も決まり希望に燃えて羽ばたく自分を思い出す。

 人生は「生涯学習」である65年間、この岩国で学び・働き、得たものを良き思い出に新天地で趣味を通して、学び・老後生活を楽しみたいと思う。

 

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岩国かるた ☆ や ☆

2007年02月24日 09時32分56秒 | 私の行った山口県の名所旧跡:観光地

       槍こかし松は藩主の意地をみせ

     

昔、諸国の大名が他藩の城下を通る時には、行列の槍を倒すのが礼儀となっていたが、大藩が小藩の城下を通る際には槍を立てたまま威風堂々と通うった。

 岩国藩は六万石の小藩、大藩のやり方に憤慨したがどうにもならない。

      

     そこで、横枝の張った松ノ木をわざと錦帯橋の出入り口辺に植え、槍を倒さなければ通ることが出来ないようにし、大名が槍を倒して通るのをみて溜飲をさげた。

    

    

   この心意気は「神か仏か岩国さまは・・・・」に通ずる。

  この槍倒しの松は、錦帯橋の両側にあり商人や寺のある旧西岩国地区の方  の松は、現在は二代目です。

 

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岩国かるた「て」と剣豪「佐々木小次郎」

2007年02月14日 09時01分03秒 | 私の行った山口県の名所旧跡:観光地

天守閣は南ばんずくり岩国城

錦帯橋を渡り右折すると土手下に「佐々木小次郎」像があり吉香公園を山の方に行くと、ロープウエー乗り場に到着

岩国城は山頂の要害と山麓の居館とから出来ています。

山頂の城は慶長十三年(1608)藩祖・吉川広家によって築かれたが、一国一城の命によって、完成後わずか七年で壊されました。

現在の城は昭和三十七年に再建されたもので、三階までは吉川家ゆかりの武具甲冑類が多く陳列され、四階は展望所となっています。

 

天主閣は「桃山風南蛮造り」という全国にもまれな山城で、学術的にも歴史的にも貴重なものだそうです。

 

 

岩国城と錦川、柳の下を飛び交うツバメ・・・・

 

下関の巌流島で宮本武蔵と決闘した、剣豪・佐々木小次郎は此処岩国藩に滞在中、錦帯橋河畔の柳の木の周りを飛び交うツバメを見て、あの有名な”つばめ返し”を生み出したのだそうです。

 

岩国市観光協会公式サイト・・・・・・色々掲載されてます。参考にどうぞ

 

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防府天満宮と梅庭園

2007年02月12日 23時50分48秒 | 私の行った山口県の名所旧跡:観光地

 防府天満宮はJR山陽線・防府駅を出て、天神通りを抜けると目の前に石段が見えます。

車では、山陽自動車道・防府西インターか防府東インターで降ります。標識に沿って進めば約10分程度で行けます。

 

 

防府天満宮

天満宮は菅原道真公をはじめ、公のご先祖の三命との四柱をお祭りしてありま    す。

この天満宮は、北野(京都)・大宰府(福岡)と共に日本三大天神と称されています。

この地は道真公西下の途中立ち寄られ身は筑紫に果てるとも魂は必ずここに帰るであろうとお誓いになった由緒あるところです。

延喜四年(904年)天満宮が創建され文教の神として広く世にあがめられてきました。

 

 梅庭園       梅花について

野梅系・野梅性新梢は日焼けせず緑色。水皮の色と枝の切り口の色に関係なく白色。芳香が強い。

野梅系・難波性一般的には白色で淡紅色・紅色もある。芳香があり、節の部分がふくれる。さし木、取り木が容易に出来る。

野梅系・紅筆性蕾みの先が筆の穂先のようにとがり鮮明な紅色。新梢が日焼けし紅色となる。葉痕はふくれ芳香あり。

野梅系・青軸性新梢は日光に当たっても日焼けせず緑色。 蕾みは緑白色。

紅梅系・紅梅性本紅色が多いいが、白花淡紅・紫紅色もある。水皮や枝の切り口は紅色。新芽は赤く芳香あり。

紅梅系・緋梅性紅梅性以上に濃紅色で花色は黒みがかった濃紅色。新梢は赤味が強い。

豊後系・豊後性木の性質が出ているため枝が太く日焼けて赤みをおびる。芳香に乏しく梅と杏の中間的な取り扱い。

豊後系・杏性花杏・杏梅とも呼ばれ枝が細い。水皮の色は青白色新梢は秋になると紅色をおびる。

 

 二宮金次郎と梅

境内は眺望絶景の景勝地で大專坊(史跡)春風楼暁天楼などの建物があります。

後の二宮尊徳公の石碑と道真公の愛した梅が園内にあります。

 

 

しだれ白梅

 こちふかばにおいおこせようめのはなあるじなしとてはるをわするな

 

紅梅

    

 

 

菅公の碑

この碑は正徳五年(1715)に代官・上山経匡が建碑したものです。

碑文には菅原道真公西下の途中勝間浦にお着きになり四ヶ月滞在されたこと、また

周防の国司がこのお宮を造営したことなどが記されています。

この碑文が読解できたら台石の亀が感動して動くと言い伝えられています

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楽しい老後を送る予定地・旧大野町・探訪①

2007年02月09日 10時52分14秒 | 私の行った広島県の名所旧跡:観光地

大野町は広島県廿日市市の南方に位置し、原爆ドームで有名な平和都市・広島市、瀬戸内海を挟み対岸に安芸の宮島、には石油化学コンビナート地帯を有する大竹市、西には温泉や渓谷で有名な佐伯町。

四季それぞれ楽しめる所が近くにあり空気の澄んだ環境のよいところです。

 

 

JR大野浦駅名の由来

昔、今川貞世(号・了俊)が九州操題として任地に下る時慶安四年九月二十一日当地で詠んだ歌

おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ

駅名はこの歌からとられたものです。

 

眼下には、国道2号線とJR山陽線背後の山の中腹には広島岩国道路(有料)と交通の便は良い。

 

 

 

遥かに霞む宮島と広島名物・かき筏・穏やかな瀬戸の海です。この周りの海岸では魚釣りもたのしめます。

 

 

丸石漁港・・・漁港の側には沢山の「かき」の直売所があり、新鮮な{かき}や{魚}が食せます。

 

 

④大田神社の由来

当大田神社は、別名塩屋山祇社と言われ祭神は錐山祇尊(きりやまずみのみこと)です。産土神(うぶすながみ)としての神社であり、塩屋・丸石の人々が山祇尊(山の神)を祀り、地域の守り神として信仰されていました。

塩屋神社が大田神社になったのは、大田新開の傍に建っていた大田神社と合祀したのでこう呼ばれるようになりました。(松原丹宮代控書ヨリ)

 

①広島方面から来ると宮浜温泉の入り口にあります。

 

 

②現地までの距離・・・JR大野浦駅より約2Km。JR玖波駅より約3Km。

大野インターチェンジより約4Km.

 

宮浜べにまんさくの湯

 ⑦どの浴槽からも瀬戸が眺める天然温泉です。自然の露天風呂と健康料理で楽しめます。外には足湯もあります。

 

米山神社昔は豊作の神として祀られていましたが、現在は商売繁盛の社として11月に米山祭りが毎年行われているそうです。

 

 次回は経小屋山や古い庭園公園の方を探索してみようと思っていますお楽しみに

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瀬戸内海・周防大島の古墳群

2007年02月05日 10時55分11秒 | 私の行った山口県の名所旧跡:観光地

柳井市大畠町の渦潮まく上に架かる「大島大橋」を渡り左折し、

         国道437号線を進む。

右手に「潮風呂保養館」「長浦スポーツ海浜スクエア」の看板あり。

右折し狭い道(全農道)を上がると山の中腹にあり。

庄地古墳群1号墳

大島町内の二大古墳群の一つで、古墳時代後期(七世紀)に築造されたと推定される。横穴式石室古墳です。

三本松山(263m)の中腹標高50~80mに立地し、七基の古墳が知られているが、現存しているのは、1、2、3、7の四基の古墳です。

古墳周辺地図

 

 狭い道なので運転には、注意

古墳の所在地・・・・山口県大島郡久賀町大字久賀 久賀町指定有形民俗文化     財

 

庄地古墳2号墳

 石材は主に花崗岩で一部安山岩を使用している。

 

 

庄地古墳3号墳

古墳よりの出土遺物は久賀町歴史民俗資料館へ保管展示されています。

 

 

宗光古墳(7号墳)

この地の古墳群の中で唯一中に「お地蔵様」が祭られてあり、時々人がお参りしているようです。

 訪れた感想

 ミカンの島、大島にはこの他沢山の観光名所があり訪れる人も多いと聞きますが、さすが古墳には少ないらしく樹木が茂り荒れていた。

少しでも皆に知ってもらい関心を持ってもらえればと思い投稿することにしました。

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爺のウォーキング・コース(1)

2007年02月03日 11時05分09秒 | 広島県廿日市市大野浦~発信

 健 康 で 長 生 き を 

 今 日 も 元 気 で ウ オ ー キ ン グ 

本日は、毎朝ウォーキングしているコースの中にある建造物を紹介します。 このコースは自宅を出発し、運動公園~椎尾神社~西岩国駅を経て自宅に帰る、約6Km(13000歩)で一時間半ぐらいかかります。

 下記にそれぞれの建造物の、由来・内容をきさいします。

 

椎尾八幡宮の由来・・・・当宮は後水尾天皇天皇の寛永三年(1626)に、時の岩国二代藩主吉川広正公が、吉川暦朝の守護人である駿河八幡宮の神霊を、現地に奉還し、同時に、太古、岩国山東北の谷に古き社にて猿田彦神をまつる宮あり。この神を別名、荒木曽神社とも称される。

この神霊と八幡大神とを合わせたまわりて現地に建立し号を椎尾八幡宮とした。

 

 

西岩国駅の由来・・・・昭和4年4月15日岩徳線の一部麻里布~岩国町間が開通して、岩国駅として開業しました。昭和9年12月1日には岩徳線が全通して山陽本線となりました。

駅舎は大正末期から昭和初期の代表的な洋風建築で、錦帯橋にちなんだところが随所にみられます。

昭和17年4月1日西岩国駅と改称されました。

 

岩国運動公園

 テニス、アーチェリー、相撲場など色々の設備が整っています。

ウオーキングコースもあり利用してます。

 

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岩国市内の古墳

2007年02月02日 13時57分00秒 | 私の行った山口県の名所旧跡:観光地

              北 方 古 墳  場所・・・・岩国市周東町北方

 行き方・・・・国道2号線を周南市の方に下ると、右手に「岩国市周東総合支所」が  あります。

そこの交差点を右折し進むと新幹線のガードがあり、それを過ぎて一つ目の道を左折し狭い道ですが進んでいると右手に看板があります。

 

               臼 田 古 墳  場所・・・・岩国市玖珂町臼田

行き方・・・国道2号線を周南市方面に下り欽明路トンネルを出ると玖珂町に入る。

平成病院の看板のところを右折し病院の方に進むと、病院の側にある。

北方古墳の由来

 古墳時代後期(六世紀)ごろ玖西盆地を支配した、豪族の墓と推定される。  全長7.5mの横穴式石室をもつ古墳で、副葬品として鉄製の武器・馬具・工具・装身具・須恵器等が出土しました。  これらの副葬品は「周東図書館」で大切に保存されています。

 臼田古墳の由来

 今から約1300年前の古墳時代後期に築造されたものです。 

 現状では、内部主体の石室をおおう封土が流失していて、墳丘がみられないが石室をとりまくように周囲の地表下に残る周溝から推定して  直径約9m程度の小円墳であったと考えられます。

 両袖単室の横穴式石室とよばれ山口県内では数少ないものだそうです。

 玖珂盆地北部を支配していた首長の墳墓と考えられています。

 玄室からの出土遺物は、須恵器のつき蓋・身・壺・はそう・高つき・などの土器、刀子(とうす)・鉄族・鉄釘・針などの金属製品のほか、女性と思われる大腿骨頭片が出土しています。

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