味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

子曰く、君に事ふる下達せず、

2018-11-15 10:59:07 | ブログ
第3599号 30.11.16(金)

子曰く、君に事ふる下達せず、辭を尚ばず、其の人に非ざれば自(よ)らず。小雅に曰く、爾の位を靖共(せいきょう)し、正直(せいちょく)是れ與(くみ)せば、神の之を聴き、穀を式(もっ)て女(なんぢ)に以(あた)へんと。『礼記』826

 孔子が言った。------君主に仕えるには、卑俗の事を取りつがず、巧い言葉を並べず、良い人物でなければ交わらない。小雅に、「臣下がその地位に安んじ慎み、正義の人びとに交ってゆけば、神がみはこれを認めて、良き報いを賜ることであろう」とある。

 【コメント】これはひとり君主に仕える場合だけでなく、世の人びとと交わる場合にもこういう態度で臨むのがいいと思います。相手が幼児であっても良い言葉を遣うと子供はそれがわかるのです。

 その昔、30年位前のこと。門下生の大社はるなさん小学1年くらいの女児に私が敬語を遣っていました。そうしたら自宅に帰ってからお母さんに曰く、学校の先生はお返事にウン、ウンと言うが、空手道の味園先生はハイ、ハイというよ、と言ったそうです。

 実は昨日、鹿児島銀行へ行った際、女子事務員がお客様との会話で、ウン、ウンと言っていました。何故、ハイ、ハイと言えないのかな、と感じた次第でした。

 顔に幾らお化粧をしていても、言葉が穢ければ心象はよくありませんが、美しい言葉だと相手の方の心まで楽しくしてあげられるのです。お互い心したいものです。

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『善の研究』第76回

    第四章 知的直観

 余がここに知的直観というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっている者の直覚である。弁証的に知るべき者を直覚するのである、たとえば美術家や宗教家の直覚の如き者をいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においては遥かにこれより豊富深遠なるものである。
 知的直観ということは或人には一種特別の神秘的能力のように思われ、また或人には全く経験的事実の以外の空想のように思われている。

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『菜根譚』84

 貧家も浄く地を払い、貧女も浄く頭を梳(くしけず)れば、景色は艶麗ならずと雖も、気度は自からこれ風雅なり。士君子、一たび窮愁寥落(きゅうしゅうりょうらく)に当たるも、奈何(いかん)ぞ輒(すなわ)ち自から廃弛(はいし)せんや。

 〔訳〕あばら屋でもきれいに庭を掃除し、貧しい女もきれいに髪をとかしておれば、外見はあでやかに美しいとは言えないまでも、品格は自然に趣を得てくるものである。そこで一人前の男として、万一、困窮の憂いや失意の悲しみに落ちたときでも、どうしてそれですぐ、自分から投げやりになってよかろうか。

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