味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

聖人の言は、恐らく浅近を以て

2017-12-27 09:53:41 | ブログ
第3284号 29.12.27(水)

或るひと曰く、聖人の言は、恐らく浅近(せんきん)を以て他(かれ)を看(み)る可からざらん、と。曰く、聖人の言は自ら近き處有り、自ら深遠なる處有り。近き處の如き、いかんぞうがちて深遠ならしむることを強(し)ひ要(もと)め得ん。揚子曰く、聖人の言は遠きこと天の如く、賢人の言は近きこと地の如し、と。願輿(いため)に之を改めて曰はん、聖人の言は、其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し、と。『近思録』179

 ある人が「聖人の教えは、浅い立場から見ることができないと思いますが。」と言った。「聖人の教えには浅いところもあるし、深いところもある。浅いところなど、むりやり深める必要がどうしてあろう。揚子が『聖人の教えは天のように遠く、賢人の教えは地のように近い。』と言っている。わたしはこの言葉をこう改めてあげよう。『聖人教えは、天のように遠く、地のように近い。』」180

 【コメント】我々凡人から見たら、聖人も賢人も手の届かない高邁な所を論じるのだと思います。それでも我々は愚直にして只管学び続けたらいいのではないかと考えます。

 そういう日々の謙虚な学ぶ姿勢が、年輪を重ねるごとに難解な問題でも理解できるようになるのではないかと考えます。とにかくどんな偉いとされる人も同じ人間なのですから、あきらめずやり続けることが大事ではないでしょうか。

 長年私はわからないにもかかわらず、決してあきらめず同じことを繰り返しています。それでもとっても楽しいのです。

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『不動心』(第148回)

 砂上の名声

 名声について。それを追い求める連中がどんな精神を持っているか、何を志し、何を忌み嫌っているのか、とくと見てやるがいい。さらに、堆積した砂の層の上にはすぐ別の層がかぶさってくるように、この人生においても、今日あるものはあっという間に、明日来るものの下に埋没してしまうことを考えてみるがいい。

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「日本の婦道」---第6回

 けれども其の為に日本古来の婦人に正しい生活がまるで無かった様に軽蔑し、日本の男児に婦人に対する道心が全く欠けて居た様に罵ることは我れを忘れた逆上沙汰と云ふ外は無い。殊に武士道に対する漫罵は今や公然社会に行われて居る。私は殆ど其の無批判的な態度を怪しまざるを得ない。古来婦人が如何なる道徳思想を有し、如何に振る舞ったかに就いては、決して今日の様な浅浮な戯論を許さぬ深い意義がある。武士道は女を奴隷視したのではなく、却って婦人に徹底した人格的要求を試みたと観ることが出来る。其の點から観て私は此処に現代婦人の道徳的自覚を深刻に刺激する二三の根本問題を説こうと思う。
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生涯を決定づけた薩摩の士風----第27回

 五月、藩当局は、人心の動揺をおさえて批判をかわすため、士踊りを再興して人々を熱狂させることにした。踊りの当日は男女挙げて見物したが、郡方書役助の西郷だけは、ただ一人出動執務したと伝えられている。
 
 西郷は、安政元年七月頃、藩主斉彬の重病と世子虎寿丸の夭死を、由羅の呪詛毒殺の陰謀であると信じ、その暗殺を計画するほどであった。西郷は、その全生涯を通じて由羅の子久光とは反りが合わなかった。完

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