味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天の時に因り、地の利に就く。

2018-03-17 16:38:29 | 学問
第3365号 30.03.18(日)

子曰く、天の時に因り、地の利に就く。『孝経』154

孔子が言うには、総ての存在の根源にあるところの天がまず時を生じ、春夏秋冬の四時を得て、自然法則の変化に順(したが)い、穀物の栽培に工夫して、地の利を活かすようにすること。154

 
 【コメント】人間が永遠に生きて行くためには、『孝経』のこの言葉が訓戒するとおりだと思います。時代と共にIT技術が進んだ今日、若い人々は、天の訓戒を無視している人がいるように思われてなりません。

 人間がまさかロボットと結婚するわけではないのに、高齢者の私共には到底理解できないことが起こりつつあるような気がしてならないのです。

 若い人々がいろいろ模索することは了としますが、地球上に棲息する構図は変わらないと思います。

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『不動心』(第223回)

 社会に直接・間接にどう関わっていくか

 あなたも社会を構成する一人として社会全体の完成のために貢献しているのだから、その活動も社会生活への完成を手助けするものでなくてはならない。直接的にしろ間接的にしろ社会の目的に関係を持たないような活動は、社会生活を乱し、結束を破壊する。それはちょうど、ある共同体に属していながら全体で一致したことから離反しようと躍起になっているようなものだ。

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『言志録一』64  才は剣の如し

 才は猶お剣のごとし。善く之を用うれば、則ち以て身を衛るに足り、善く之を用いざれば、則ち以て身を殺すに足る。

 〔訳文〕才能は、剣のようなものだ。これをよく用いれば立派に身を衛る。しかし、よく用いず悪い方面に用いると、かえって我が身を殺すことになる。

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膽は大ならんことを欲して心は小ならんことを欲す。

2017-11-16 13:43:42 | 学問
第3244号 29.11.17(金)

膽は大ならんことを欲して心は小ならんことを欲す。智は圓ならんことを欲して行いは方ならんことを欲す、と。以て法と為す可し。『近思録』97

 「胆は大きくありたいし、注意はこまかくありたい。智は円満でありたいし、行いは方正でありたい。」この二つの話は、模範にできるものである。97

忠信は徳に進む所以にして、辭を修め其の誠を立つるは業に居る所以なりとは、乾道なり。敬以て内を直くし義以て外を方にすとは、坤道なり。『近思録』101

 まごころは徳に進んでいく基礎であり、言葉を反省してつづましやかにして心を正しくし、宜しきを定めて外形をきちんとするというのは、坤の道である。101

 【コメント】少々のことに翻弄されることなく胆は大きくありたいものですし、そして知的には円満でありたいものですし、さらに出来るだけ徳を涵養するよう努力を重ねたいものです。

 昨夜は第二道場での空手道教室でした。先週足を痛めた佳那子嬢は6才は元気な姿で御稽古に来てくれました。

 私は早めに道場に行き、『南洲翁遺訓』を全部読んでみました。今まで永年小刻みに読んできましたが、最初から最後まで一挙に読んだのは初めてでした。52分かかりました。通して読んでみて『南洲翁遺訓』の素晴らしさを強烈に認識しました。

 空手道教室の子供たちにもその良さを理解出来る様説明しました。子供たちはそれぞれ学校で道徳を学んでいるわけですが、『南洲翁遺訓』をこそ教えてあげたい思いです。

 今日の新聞によると福岡県警の25歳の巡査が職場仲間の人々のお金を盗んだとして依願退職したとのことが報道されています。遊ぶ金とギャンブルに凝っていたとの由です。

 この青年は悔いはないものでしょうか。警察学校でも非違行為などはしないよう教育されている筈なのですが、自覚の程はどうであったのか、そしてご両親も悲しんでいることと思います。
 
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「西郷南洲翁の政治思想について」---第29回

 明治前半は仮令如何なる失策有っても兎に角国際場裡に雄飛しようといふ国家的熱望があった為に駸々乎として発達した。それが偶々數次の好機に乗じて一等国に躍進したと共に再び勇を鼓して進むべき標的を失って、殆ど反動的に今や弛緩堕落しつつあるではないか。明確な自覚と熱烈に追求すべき理想とあって始めて国家生活も確立し緊張する。南洲は曰ふ、

 賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国體定制無ければ、仮令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも取捨方 向無く、事業雑駁にして、成功有るべからず。昨日出でし命令の今日忽ち引易ふると云ふ様なるも皆統轄する所一ならずして施政の方針一定せざるの致す所也。

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『不動心』(第111回)

 「本性」に調和しているかぎり不都合はない
 手や足が正常な働きをしている限り、手や足に痛みを感じるのは少しも不自然でない。同様に、人間が人間の仕事をしている限り、苦痛を感じるのは人間の持って生れた本性に少しもそむくものではない。本性に調和しているものは悪であるはずがないのだ。

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『臥牛先生遺教抄』(第69回)

 日々に新たなりというを請問せしに、学ぶ者は必ず進むべき筈なるに、毎日同じ所に止まり居るは、是れ勉強の足らぬ証なり。「惟れ精惟れ一充に厥の中を執れ」と舜ものたまえり。惟れ精惟れ一とは則ち必死の事なり。必死になりて寝食を忘るる程なれば必ず偏になるべし。そこでその中を執れという訓えをきっと思い出し、自ら反省して中に立ち復りその偏なる所を改めよ。先ずその中を執りて後に惟れ精惟れ一というには非ざるならん。
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『孝経』の紹介。「「孝は親に事ふるに始まり」

2011-09-02 16:10:40 | 学問

タイトル----『孝経の紹介』、「孝は親に事ふるに始まり」。第962号 23.09.02(金)

 

〈夫れ孝は親に事ふるに始まり、君に事ふるに中し、身を立つるに終わる〉

「いったい、孝ということは、まず第一に家におって親に事えることが始まりとなる。出仕して家を出て君に事えるのがその中間に位している。身を立つるとは、まず孝に始まって、次に君に事えて忠を尽くすことができて、始めて立派な人物になるのである。ここにおいて終わるということは、孝を成し遂げたという意味である。」

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 こうしてご紹介させて戴いていますが、現代の父母たちも自分は親につくしたかどうかわかりませんが、子供は親に尽くしてほしいものだ、と思っていることでしょう。

 別な解釈として、「夫れ人の子たる者は、先づ能く身を全うして、しかる後に能く其の道を行うなり。夫れ道を行うとは、先づ能く親に事えて、しかる後に能く其の身を立つ。」とあります。こういった儒教道徳を現代的に沿うように、親にも、君(職場の上司)にも、同僚にも友人にも良い感化をあたえるようにし、社会の浄化に尽くしたいものです。

 それにしても現代のこの乱れはどうしたものでしょう。思うに、身を修めて、人をも治めることが出来れば、人間の役目を果たしたといえるのではないでしょうか。多くの方々が、『孝経』なんて何か、と問うでしょうから、紹介の意味でこれからも続けたいと思います。

 私自身、妻にも子にもそういうふうにあるべしという気持ちはさらさらないのでございます。ただ、漢籍のすべてをできれば読みたい、という一途な気持ちだけです。

 できるものなら、『孝経』が言う世の中に少しでも近づき、人々が幸せを享受してくだされればという思いであります。

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『孝経』の紹介。

2011-09-01 12:33:38 | 学問

タイトル---『孝経』の紹介。第960号 23.09.01(木)

 

 開宗明義章 第一「至徳要道有って---」のところはブログ第120号(21.08.29)、「夫れ孝は徳の本なり」はブログ第7号(21.08.10)のところはすでに書いていました。今回は次の言葉を紹介します。

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〈身體髪膚(しんたいはっぷ)、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり 〉

「わが身は両手・両足を初め毛髪・皮膚の一切に至るまで、すべて父母から戴いたものである。いわばわが身体は両親の遺体である。この大切な遺体を善く守ってわけもなくいため傷つけないように心がけるべきである。それが孝行の始めというものである。」p78

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 72歳を迎え、旅立つ前の心境ではないが、子供が親に対する気持ち、かくあるべしと思う日々です。そしてまた、親でありながら、子供を殺すといことも度々新聞等で目にします。もう少し、万物の霊長である人間の尊厳性を自覚して、人の道を歩けないものでしょうか。

 多くの子供さんを預かる空手道場の主として、上の『孝経』の訓戒を現代社会にマッチさせながらお話をすすめたいと思うのです。

 経済至上主義も大事だが、立ち止まって考えてみたいものだと思います。

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「果にして伐る勿かれ。」『老子』

2011-08-15 11:07:27 | 学問

タイトル---「果にして伐る勿かれ。」『老子』 第942号 23.08.15(月)

  連日、勉強のつもりで稚拙なブログを綴っています。ご海容賜りたく存じます。

 「老子道徳経」については次のように紹介されています。

  「老子道徳経」。周の守蔵室の史(ふびと)、老たんという人物によって著わされたというので、「老子」と冠され、書の内容が天の道と人の徳を述べたものであるので「道徳」の二字が付され、恒常の真理を伝えている書という意味で「経」の字が付されている。

〈善なる者は果(か)なるのみ。敢えて以て強を取らず。果にして衿(ほこ)る勿かれ、果にして伐る勿かれ、果にして驕る勿かれ、果にして已むを得ざれ、果にして強なる勿かれ。物壮(さかん)なれば則ち老ゆ。是れを不道と謂う。不道なれば早く已む。〉

 善い(政治や外交という)ものは、ただ果断ではあるが、決して果断をもって強大の名を取ろうとはしない。果断であっても尊大にかまえたり、(自己の才能を)ほこったり、驕慢になったり、強くあろうとするな。やむを得ざる時のみ果断であれ。すべて物は強壮であるとすぐ老衰するものだ。強壮(にまかせて無茶をやるもの)を不道という。不道なものは早く滅び去るものだ。(新釈漢文大系・明治書院『老子』道経上、参照)

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 連日、楽しんで漢籍を読み、安岡正篤先生の著書を読み、その奥深い教えに堪能しています。それは『南洲翁遺訓』の訓戒と同じものであると解しています。長年、漢籍を教材として人間学講座を開催している荘内南洲会の先生方は、ご人格が無為に形成されていると思われるのです。これこそが安岡先生が説く、「人間学」だと存じ、私どもも少しずつ学んで参りたいと思っている次第です。

 『南洲翁遺訓』を改竄するのも不道というのだろうと思います。人間として、あるましき行為なのです。

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