ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(427):加古を歩く(78)・間形村由来書送り之事

2011-02-25 07:43:39 |  ・稲美町加古

A0544aa5_3  先日、加古川市のある公民館の歴史講座でお話をしました。

講座の後、加古川町美乃利(間形)の沼田さんとお話をしました。

なんと沼田さんのご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」を拝見させていただきました。

写真はその一部です。

きょうは、その内容(口語訳)の紹介をします。

次号から、数回この文書が意味する当時の私たちの地域(史)について考えてみます。

なお、この「間形村由来書送り之事」も「(シリーズ)加古を歩く」の続きとします。*文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。

  間形村由来書送り之事(口語訳)

間形村というのは、溝ノ口村の枝村ですが、溝口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。

姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地」となり、取り上げられました。

その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりました。

免相(めんあい・税率のこと)は、六割六分だったものを「一つ」減じて五割六分となりました。

Ff7c5fda_2当時、平野村の兵左衛門が間形村の庄屋を兼ねていましたが、同年三月二十六日に、天王寺村(現、野口町良野)の庄屋・甚五郎が間形村の庄屋を兼ねることになりました。

しかし、それでも間形村の生産は安定しません。

延享三年(一七四六)に「間形の免相(年貢率)を三割に減らしてほしい、そして枝村ではなく、独立した間形村として認めてほしい」と藩主・松平明矩(まつだいらあきのり)に願い出たところ、なんとこれが認められました。

寛延元年(一七四八)十一月十七日、大和守明矩様は亡くなられました。

これによって、毎年十一月十七日の命日には、間形村の大恩人の明矩様に感謝して、村役人宅に集まり、その遺徳をしのび位牌を拝むことを決めました。

このように、大和守様(松平明矩)の遺徳をおろそかにせず、いつまでも守るように。

    寛延元年(一七四八)十二月 

 加古郡間形村  九郎太夫

この事を、今後も末永く村中へ折々読み聞かせるように。  

              西条組大庄屋  直次郎

   右証

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