講座の後、加古川町美乃利(間形)の沼田さんとお話をしました。
なんと沼田さんのご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」を拝見させていただきました。
写真はその一部です。
きょうは、その内容(口語訳)の紹介をします。
次号から、数回この文書が意味する当時の私たちの地域(史)について考えてみます。
なお、この「間形村由来書送り之事」も「(シリーズ)加古を歩く」の続きとします。*文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。
間形村由来書送り之事(口語訳)
間形村というのは、溝ノ口村の枝村ですが、溝口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。
姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地」となり、取り上げられました。
その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりました。
免相(めんあい・税率のこと)は、六割六分だったものを「一つ」減じて五割六分となりました。
当時、平野村の兵左衛門が間形村の庄屋を兼ねていましたが、同年三月二十六日に、天王寺村(現、野口町良野)の庄屋・甚五郎が間形村の庄屋を兼ねることになりました。
しかし、それでも間形村の生産は安定しません。
延享三年(一七四六)に「間形の免相(年貢率)を三割に減らしてほしい、そして枝村ではなく、独立した間形村として認めてほしい」と藩主・松平明矩(まつだいらあきのり)に願い出たところ、なんとこれが認められました。
寛延元年(一七四八)十一月十七日、大和守明矩様は亡くなられました。
これによって、毎年十一月十七日の命日には、間形村の大恩人の明矩様に感謝して、村役人宅に集まり、その遺徳をしのび位牌を拝むことを決めました。
このように、大和守様(松平明矩)の遺徳をおろそかにせず、いつまでも守るように。
寛延元年(一七四八)十二月
加古郡間形村 九郎太夫
この事を、今後も末永く村中へ折々読み聞かせるように。
西条組大庄屋 直次郎
右証