より厳しい評論家に
大正11年6月上旬三宅周太郎著「演劇往来」の出版祝賀会が催されました。
出席者は、山本有三、久米正雄、俄然文壇の中枢に新鋭作家として頭角を現した芥川龍之介、高名な有島武郎、生島兄弟の実弟である劇作家の里見弾という顔ぶれでした。
周太郎は、自分の為にその将来に向って励ましの為に、心おきない師、先輩、友人達が参集しての祝賀会を、心から感激し感謝せずにはいられなかった。
やがて料理が運ばれ、グラスにウイスキーがそそがれ、テーブルスピーチが始まりました。里見惇が立ち上がりました。
「三宅君おめでとう。君の処女出版『演劇往来』の評判は悪くない。しかし僕は今夜君に苦言を呈した。・・・いうなれば君は若いのに珍しい劇界に精通した玄人だ。
しかし、芝居の実務家で君は終る人であってはならない。 僕は今夜ここで君に要請する。今後は器用な舞台の人であるより、深く学芸の本道に立ち帰って貰いたいことを 切に望むものだ ・・・」
その次は芥川龍之介で長髪をかき分けて立ちました。
デリケートな神経の持主である彼は、場内の沈静につとめるかの様に、話をそらして簡潔な祝いの言葉だけで終りました。
続いて小山内薫が立ち上がり、その挨拶は誰も予想もしなかったような、まさに、愛弟子に対して諭すような峻烈な内容でした。
参会者の誰もが緊迫した想いにかられるという祝賀会になってしまいました。祝賀会は漸く終った。
舗道を一人で歩いて下宿へ帰った周太郎は、机の前に座って腕を組み、再度テープルスピーチに立った里見惇、小山内薫のきびしい表情を思い浮かべてみました。
これらの人達の提言、苦言を何度も復唱して噛みしめてみれば、それは彼自身の急所・弱点を見事にも突いたものだと思もえるのでした。
「それは険しい高い峰を目ざして登る者が、知らずの中に道に迷い、その据野の小高いコブのように突出した所を頂上と錯覚して、徘徊している姿にも似ているのではなかったか」と。
この時、周太郎は愕然として突如と強く閃くものを感じとりました。
この夜を契機として周太郎の舞台をみる眼は、一層けわしいものになったといわれ、その後天下の名優たちと数多くの芸道対談を記録に残していますが、それらは、何者といえども安易に許容しない、きびしい一線を画したともいわれています。(no4605)
*写真:里見惇
◇きのう(1/13)散歩(11.147歩)
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