ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(19) 周太郎『時事新報』を追われる

2019-01-11 08:57:49 | 三宅周太郎さんのこと

          周太郎『時事新報』を追われる

『時事(新報)』における千葉亀雄とその系統の柴田文芸主任の存在が、自分にとって如何に大きな生殺与奪の鍵を握っていたかを思い知らされました。

周太郎への批判の大波をくい止めてくれていたのです。

「帝劇」の経営陣の重役クラスと、俳優の某が周太郎の劇評を迷惑として、時事の幹部や社主に働きかけて「くび」にしたいきさつが、おぼろげながらに読めてきました。

         時事新報社を追われる

 慶応義塾は幕末から明治にかけて、啓蒙的洋学者とも高く評価される福沢論吉が、将来の日本を背負う人材の養成を目的とした私学校であり、『時事新報』も世論を啓発するために諭吉が創刊したものでした。

 当然福沢家の資力によって運営された会社であったし、政界財界の主脳を設立準備委員に網羅して、福沢家がその筆頭株主として君臨していました。

 慶応で永井荷風・小山内薫らの純芸術至上主義の薫陶をうけ、その信ずるままをペン先によって開花せしめた時事紙上での劇評が、これまた同じ福沢系統の帝劇の舞台とその経営陣は、周太郎からペンをもぎ取ったのです。皮肉な巡り合せでした。

 また、三宅周太郎のような駆け出しの劇評家の息の根を止める位のことぐらいは、朝飯前でした。

 周太郎は『時事(通信)』を追われ失職しました。

    親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助亡くなる   

 さらにこれに追打をかけるように一通の不吉な電報が下宿にとどきました。

 それは、大阪の姉から周太郎のよき理解者であり劇評家としてのパトロン的存在であり、常日頃から親とも頼っていた義兄仙之助(市内平岡町中野出身)の急死を知らせるものでした。

 周太郎はまさしく動転しながら大阪へいそぎました。

 大正十年五月十日の夕刻でした。(no4602)

 *写真:親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助のねむる橋本家の墓(加古川市平岡町二俣の円明寺)

 ◇きのう(1/10)散歩(10.667歩)

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