野口城の戦い(3)・教信寺炎上
野口城の攻防では、野口城の兵はもちろん、教信寺の僧たちも共に戦いました。
しかし、三木方からの援軍はなく、野口城は落城し教信寺も炎上しました。
この時、教信寺の多くの宝物も焼失してしまいました。
本尊の阿弥陀如来像(写真)など数点が奇跡的に残っただけです。
野口城の戦いでは、教信寺だけではなく近在の多くの寺も焼き打ちにあい、貴重な寺宝が失われています。
教信寺(常住院)の小杉隆道氏は『教信(四)・涅槃』で、背う説ですが教信寺の宝物の焼失時の状況を次のように描いておられる。
『教信(四)』から一部をお借りします。
教信寺炎上
・・・・戦場荒しのこの雑兵どもは、重く閉ざされた扉を破って宝蔵の内部に侵入し、寺僧を切り捨て、手当たり次第に収蔵する品々を引きだした。
清和帝の詔書、崇徳帝の祈願文、五深草帝宸筆(しんぴつ)等帝、上皇の親書、勅額の外縁起(えんぎ)、過去帳,資材宝物帳や多くの古文書、記録簿冊類が経書とともに投げだされ、宝蔵の外には見る間におびただしい反故(ほご)の山となった。
だが、この種の品々は、雑兵(ぞうひょう)どもには無用のものだった。
金銀の類が手に入らないと見ると、狼にも似た男どもは、腹いせに無法な行為に出た。破り捨てた文書の山を点在する書堂の前に積み上げると、次々に火をつけた。
火焔は瞬く間に堂塔をなめ、殿堂諸門一棟も残さず焼き尽くし、仏器、宝物ことごとく灰になった。・・・(以上『教信(四)』より)
残った阿弥陀如来像立像!
天正6年(1578)4月、教信寺のすべての諸堂が灰燼となりましたが、わずかな仏具・仏像が奇跡的に残りました。
そのうち阿弥陀如来立像(写真)を紹介しておきます。
この像は、戦国期前期から教信寺本尊であったと考えられています。
頭部を除いて大きく修理されてますが、全体のお像は損なわれていません。
台座、後背、脇侍は江戸時代後期に修理されています。
台座の銘文から弘化三年(1846)に現在の台座と光背が整えられたのが確かめられています。(no4492)
*『仏と神の美術(中世いなみ野の文化財)』、『小説・教信(四)』参照
*写真:阿弥陀如来立像(「平安~鎌倉時代、12~13世紀」の作)
◇きのう(6/17)の散歩(10.781歩)
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