ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(17) 妥協しない演劇批評家

2019-01-09 09:19:14 | 三宅周太郎さんのこと

    「ひろかずのブログ」今日、4600号

       妥協しない演劇批評家

 周太郎の時事の劇評はその年の五月の歌舞伎座から始まりました。

 充分な紙面が与えられたため、周太郎には張りのある仕事でした。

 劇場側とも前もって連絡をとり、幹事の組んだスケジュールによって行動をするようになりました。

 芝居を観るのは大抵午后八時頃までにして、早々と劇場を切り上げては、帰りはまだ早いといって全員揃って二次会へ直行するのが常習になりました。

 もう少し正確に書くと、あらかじめ興行主か劇場が用意した花街の料亭へ行き、子定の懇親会がやがて検番のキレイドコロのサービスによってバカ騒ぎになってオヒラキになったのでした。

 その結果は情が移って、劇評のペン先に手加げんが加えられるか、鈍くなるのは当然です。

 劇場側としても人気商売のこととて、劇評家の先生方を抱き込んで骨抜きにし、チョウチン持ち記事によって大入満員を画策するとすれば、料亭のツケ位は宣伝費の一部とでも考えていたようです。

 これが、従来の演劇界の公然の秘密であり実情でした。

 ところがこの社会へ、とんでもない「カタブツ」入り込んできたのです。

 それが三宅周太郎でした。

 周太郎の場合は劇場へは何の連絡も取らず只一人で気のむいた日に忽然と、劇場の招待券と時事の身分証明をもって木戸に現れ、自分で適当な空席を見つけては必ず終わりまで、きちんと舞台を見てノートを取り、晩の10時半、11時頃の人影もない暗くなった劇場から帰って行くのでした。

 そして書上った劇評は痛いところをグサリと突きました。

 在京の眼のきいた多くの好劇家や芝居ファンを喜ばしました。

 劇場関係者や俳優達が顔をしかめ周太郎を恐れたのは当然でした。

 これは、よほど勇気のある人か、若しくは深い造詣と信念に裏打された人でなければ到底出来ない芸当です。

 時事へ入って間もない五月、周太郎は市村座へ入っていきました。

 招待券を持っていたので二階の桟敷席につきました。

 その時は菊五郎、吉右衛門一座に帝劇の尾上梅幸が特別参加した大一座で、舞台では「鳩の平右衛門」に扮した吉右衛門の熱演に周太郎はすっかり感激し、静かに幕が降りた後でこの劇評のまとめを考え込んでいた時、後の戸がスーと開いて品格のある梅幸がにっこり笑って周太郎の後に座ったのです。

 それは、木戸からの連絡によって天下の名優尾上梅幸が、わざわざ周太郎に表敬の挨拶に来たのでした。

 それから或る日、周太郎は文芸主任に呼ばれた。

 「帝國劇場だけは、少し寛大にやって貰いたい。君も知っている通り帝劇は時事の社長と同じ福沢一家の持物のようなものだから。よろしく頼むよ・・・・」と周太郎を説得するのでした。

 これは、周太郎の耳には入らなかったようです。

 

 今日で「ひろかずのブログ」は、4600号になりました。

 80歳まで書きたいですね。とりあえず5000号を目指します。よろしくお願いします(no4600)

 *写真:6代目尾上梅幸

 ◇きのう(1/8)の散歩(11.500歩)

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