ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(13) 演劇の批評の仕事をしたい

2019-01-05 08:32:35 | 三宅周太郎さんのこと

 〇12月28日のブログ「三宅周太郎のこと」の続きです。 

    演劇の批評の仕事をしたい

 周太郎は6才で母に、13で父に死別したとはいえ、経済的には充分に恵まれた境遇であったとみるべきでしょう。

 周太郎は、学校の勉強もそこそこに、毎日のように出かける芝居見物のみが、唯一の張りのある生甲斐ともなっていました。

 「周太郎には、大阪の姉なる同情者があった・・・」とあるように春・夏・冬の各期末の休みになると、大阪に嫁している姉「まさ」の橋本家へすっとぶようにして行き、我が家へ帰ったような気易さで休み期間いっぱい逗留して、毎日のように芝居見物をしました。

 この観劇はやがて周太郎が劇評家として世に立っていく上に、はかり知れない程の効果をもたらしました。

 その頃の大阪は、この国の資本主義経済が定着し、やがて燗熟期に入 って行く前夜に近いような活気にあふれた街でした。

 姉「まさ」の家は、上本町六丁目から歩いて十分足らずの生魂神社(いくたまじんじゃ)の近くの高台にありました。

 そこから電車通りへ出ると道頓堀で、そこには大阪を代表する道頓堀五座が正面の高い軒先から丸型の赤い提灯など装いをこらして競い合っていました。

 大阪の人達も京都・東京の人達に劣らぬ程芝居好きが多かったのですが、姉「まさ」も周太郎と同じように芝居好きでした。

 「まさ」の主人の仙之助はすでに事業家として成功して財力も充実をしており、周太郎には、無干渉主義でその上家内とその弟が連れ立っての芝居見物を歓迎するという有様で、周太郎姉弟は道頓堀五座を毎日のように観劇ができたのでした。

 周太郎は姉に「僕は将来劇評という仕事で立っていきたいと思う」と話すと姉は、「周さんがそう思うのならいくらでも芝居を見て研究していいわ。私は応援するから・・・」といってくれました。

 そのころ周太郎は、その雁治郎に深く心酔していました。

 しかし、その後商業主義に便乗した輿業元がこの名優の操作をややもすればあやまった道へと導きました。

 周太郎の劇評家としての眼は自分の真の巧な芸を知らず、世間と周囲からおだてられて凡庸な芸を得意芸と誤認している点が多いとズバリ批判を加えています。

 周太郎には舞台における芸衛至上主義の聖なる不屈の信念と気迫がありました。(no4596)

 *写真:大阪の姉(まさ)

  ◇きのう(1/4)の散歩(11.875歩)

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