「広報加古川(昭和36年3月号)」は平荘湖建設のニュースを伝えています。
『加古川市議会史(記述編)』から、その内容をみておきます。
平荘湖ダム建設
加古川市は、工業誘致に積極的に取り組み、工業都市としての発展をめざしました。
しかし、そのための多くのインフラが未整備でした。
特に、工業用水の確保は急を要しました。
昭和32年11月には、加古川市工業地帯整備促進協議会が発足し、市会においても工業用水ダムの必要性が認識され、同年10月、議員総会で「加古川上流に一ヵ所代表的なダムを建設する」案が提出されました。
ダム建設に向けて具体的に動き出したのは、国庫補助が確定し、昭和35年1月に入ってからでした。
35年9月には神戸製鋼所誘致が本決まりとなりました。
「平荘町又平新田の升田山など4つの山を土手で環状につなぎ、水面積1.3平方キロメートルのダムで、総工費31億5000万円、貯水量88万トン、加古川よりポンプアップする」という計画でした。
45年完成予定でした。
難航した保障交渉
ダム建設によって100万平方メートルが水没します。
また、又平新田にある市立養老院と約30戸が水没することになりあました。
地元民は、将来に対す生活に対する不安はぬぐえず、誠意ある県の対応を求めました。
交渉は難航しました。
37年3月11日付けの神戸新聞は、「東播工業地帯の工業用水を確保する加古川県営工業用水ダムは既に着工の段階に入っているが、10日、残っていた地元又平新田地区の保障要求がまとまり加古川工業用水建設事務所に提出した・・・同案では、県の案と大きなへだたりがあり、今後の交渉にくらい影を投げかけている」と報じています。
市会ダム対策特別委員会は補償交渉の解決に向けて両者の斡旋に乗り出し、37年12月、難産の末、県と地元との最終合意がまとまり、昭和38年に入り、本格着工となりました。
41年4月、待望の貯水がはじまり、7月1日ダムは完成しました。(no3617)
*『加古川市議会史(記述編)』参照
*写真:平荘湖の風景
メモ:昨日の散歩(10.454歩)