ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

三宅周太郎さんのこと(18) 帝国劇場と対立

2019-01-10 08:24:01 | 三宅周太郎さんのこと

      帝国劇場と対立

 大正時代はこの国で演劇が最も隆盛をきわめた時代でした。東京・大阪・京都の街はもとより、田舎町に至るまで、続々と劇場が新設され連日輿行が盛況をきわめた時代でした。

 加古川流域の播州路にも、町から村へ、村から村へと旅廻りの劇団が、大小の舞台道具を荷馬車に積んでかたことと移動したが、農閑期の田んぼの中で、ビユールハゥスのような型をした粗末な仮設劇場での、無名の旅役者の熱演に、これまたささやかなその日の作業を終えた村々の老若男女が押し寄せ、力一杯の声援を送りました。

 文壇でも新進作家達は小説より戯曲を続々と書き、新しい演劇運動に何らかの関りを持つようになりました。

 小山内薫、武者小路実篤、久保田万太郎、谷時潤一郎、久米正雄、菊池寛、山本有三らがその代表的な人達でした。

 周太郎もまた大正七年、八年と東京市内の劇場をかけ巡り、時事の劇評を精力的に思うままに書き続けました。

 その年の瀬も迫った12月のことでした。千葉亀雄と柴田早苗(周太朗の理解者)の二人がどんな事情があったのか、突然時事をやめ「読売」にスカゥトされました。

 この二人の退社によって周太郎の運命は大きく狂うことになりました。

 それというのは以前から周太郎の芸術至上主義の劇評記事は、劇場側の経営主義は時には対立し、経営者側から時事の主脳部に、しばしば苦情が持ち込まれていたのでしたが、千葉亀雄という周太郎を高く評価した時事の幹部が、とにも角にもその防波提の役割となってくれていました。

 その退社によって周太郎に対する反発は、たちまち大波となり直接周太郎の身辺に直接に迫ってきたのです。

 その中で時事に最も大きな圧力をかけたのが「帝国劇場」でした。

 大正9年1月、まだ正月気分もさめやらぬ中旬、周太郎は例のように「帝劇」の正月公演を観てその劇評をまとめて時事へ持参しました。

 原稿は、たいてい5日以内には社会面に掲載されることになっていたのに、何故か一向に載りません。少し遅くれるのか?と思って待ち続けましたが、活字になりませんでした。

 これは一体どういうことになっているのか・・・・

 周太郎に、事の経路や真実が判ったのは恩師小山内薫から「時事は君を敬遠して、今後君の劇評はのせぬことに決定したようだ。・・・・」と伝言がとどいたからです。

 明治45年夏のチブス禍以来、周太郎の人生にとって、それは第二の瑳鉄ともいうべきものでした。(no4601)

 *写真:昔の帝国劇場(1911年建設)

 ◇きのう(1/9)の散歩(11.359歩)

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