兵庫の港
『菜の花の沖』で、司馬遼太郎はこの頃の松右衛門について書いています。
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「・・・わしは(松右衛門のこと)十五の齢に家を出たよ」と松右衛門は人によく言い、その時は、両親も肩の荷をおろしたようによろこんだという。
この少年がどれほど悪堂だったかがさっせられる。・・・・」(『菜の花の沖』より)
私の松右衛門のイメージは、がっちりとした体の真面目な少年ですが、あるいは司馬氏が言うようにワルガキの面もあったのかもしれません。
松右衛門は、力士のように大柄でした。
とにかく、15才の時に兵庫(神戸)へ飛び出しました。夢の続きでした。・・・
天下の台所
秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまりました。
大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いでいました。
教科書『中学社会・歴史』(大阪書籍)の記述を借ります。
・・・大坂は、江戸の間に航路が開かれると、木綿・酒・しょう油・菜種油等を江戸へ積み出し、それをあつかう、問屋が力をのばしました。
各地の大名は、大坂に蔵屋敷(くらやしき)を置いて年貢米や特産物を売りさばきました。
また、日本海と大坂を結ぶ西まわり航路が開かれると、大坂は商業都市としていっそう発展しました・・・(以上『中学社会・歴史』より)
河村瑞賢(かわむらずいけん)により北前船(日本海航路)が成立したのは、寛文12年(1672)です。
兵庫(神戸)港は、大坂の外港に
しかし、大坂の港は大きな欠点がありました。
淀川が押し出してくる大量の土砂は、安治川・木津川尻の港を浅くしました。
徳川中期の頃までは堺がその外港としての役割を果たしていましたが、宝永元年(1704)大川の流れを堺へ落とす工事が完成して以来、堺は港としての機能を低めました。
この点、兵庫の港は違っています。
六甲山系からは大きな川がありません。川は短く、一気に流れ下り水深が深いのです。
徳川期にその役割を弱めた堺に代わり、兵庫の港(神戸港)は大阪の外湊としての役割を果たすようになりました。
最初は、海路で全国から大坂へ運ばれる商品はいったん兵庫(神戸)に運ばれ、そこで陸揚げされず、ほとんどの商品は小船で大坂へ運ばれていましたが、船の輸送はますます増え、兵庫の港にもの商品が陸揚げされるようになり、取引が行われるようになりました。
兵庫の廻船問屋は大いに栄えました。(no4558)
*挿絵:幕末の兵庫津(神戸市立博物館蔵)
◇きのう(8/14)の散歩(11.230歩)