ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(78) 美濃部達吉②・達吉の生家跡

2014-12-03 07:55:48 |  ・高砂市高砂町

   美濃部達吉生家跡・いまは倉庫

 前号の記事と重なります。

 美濃部達吉の天皇機関説事件以後、政治・経済のあり方についての研究の自由はなくなった。

 政府・軍部は、国民のいっさいの非難を許さず、戦線を中国全土に広げた。

 1945年(昭和20)、8月15日、敗戦。

 戦後、新しい憲法がつくられ、達吉は新憲法に関する著書を出版した。

 達吉の新しい活動が始まろうとしていた1948年(昭和23)、達吉は75歳の生涯を終えた。

 達吉の生家は高砂町の堀川の近くで、現在は、倉庫(写真上)になっている。

 達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったようだ。

     美濃部達吉生家跡説明の碑

現在、生家跡の倉庫の側に御影石に次の説明が刻まれている。

        美濃部達吉生家跡

  「明治憲法下で「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉博士は、明治6年(1837)5月7日、父秀芳(蘭方医、申義堂教授、第2代高砂町長)、母悦の次男として、ここ材木町の地で生まれた。

  達吉博士は、高砂小学校、小野中学校を経て兄俊吉とともに上京、東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学教授を経て務めた。

  その間、東大における美濃部憲法学は、幾多の著名な憲法学者、行政法学者を輩出した。

  昭和23年(1948)、東京で他界したが生前の著書等は、息子の亮吉氏(元、東京都知事、参議院議員)の蔵書とともに「美濃部親子文庫」に保存されている」(説明板より)

  こんな説明もよいのですが、屋敷の一部でも残しておいてほしかった。

  美濃部家を知るご近所の方もそのようにおっしゃっておられた。

 *写真:美濃部達吉生家跡に建つ倉庫

 

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