美濃部達吉生家跡・いまは倉庫
前号の記事と重なります。
美濃部達吉の天皇機関説事件以後、政治・経済のあり方についての研究の自由はなくなった。
政府・軍部は、国民のいっさいの非難を許さず、戦線を中国全土に広げた。
1945年(昭和20)、8月15日、敗戦。
戦後、新しい憲法がつくられ、達吉は新憲法に関する著書を出版した。
達吉の新しい活動が始まろうとしていた1948年(昭和23)、達吉は75歳の生涯を終えた。
達吉の生家は高砂町の堀川の近くで、現在は、倉庫(写真上)になっている。
達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったようだ。
美濃部達吉生家跡説明の碑
現在、生家跡の倉庫の側に御影石に次の説明が刻まれている。
美濃部達吉生家跡
「明治憲法下で「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉博士は、明治6年(1837)5月7日、父秀芳(蘭方医、申義堂教授、第2代高砂町長)、母悦の次男として、ここ材木町の地で生まれた。
達吉博士は、高砂小学校、小野中学校を経て兄俊吉とともに上京、東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学教授を経て務めた。
その間、東大における美濃部憲法学は、幾多の著名な憲法学者、行政法学者を輩出した。
昭和23年(1948)、東京で他界したが生前の著書等は、息子の亮吉氏(元、東京都知事、参議院議員)の蔵書とともに「美濃部親子文庫」に保存されている」(説明板より)
こんな説明もよいのですが、屋敷の一部でも残しておいてほしかった。
美濃部家を知るご近所の方もそのようにおっしゃっておられた。
*写真:美濃部達吉生家跡に建つ倉庫