ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

江戸時代、高砂の商業活動(46)  経済(商業)都市・高砂の変貌 

2017-08-11 09:13:54 | 江戸時代、高砂の商業活動

 

        経済(商業)都市・高砂の変貌 

 高砂の町は、池田輝正の姫路への入部(慶長五年)後、ここに城が築かれ城下町として出発しました。

 城下町は、まず政治・軍事都市であり、そして経済都市の性格をもちました。

 しかし、高砂の町の性格を決定づけたのは、元和元年(1615)の武家諸法度の「一国一城令」でした。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済(商業)都市として整備を進めていくことになりました。

 加古川流域という豊かな後背地と高砂の町は、加古川(高瀬船)により結ばれ、高砂の町は、江戸時代をつうじ繁栄することになりました。

やがて、江戸幕府は倒れ、時代は明治へと大きく変わります。

 従来の領主の貢米がなくなり、それにたよっていた多くの問屋が没落しました。

 息の根を止めたのは、山陽鉄道(現:JR山陽線)開通でした。

   工業都市に活路をみつけようとしたが・・・

 明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたのではありませんでした。

 当初の計画では、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定でした。

 高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、町の有力者は「鉄道敷設」に反対しました。

  鉄道が高砂を通過することにより海運が衰えるというのがその主な理由でした。

 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになり、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになりました。

 鉄道を拒否した高砂の町の衰退は決定的になりました。

結果、高砂は、工場誘致に活路を見つけることになりかした。

 注目したいのは、一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められることになりました。

 やがて、高砂の町からの浜は企業のものになっていったのです。(no3685)

          完・江戸時代、高砂の商業活動  

*挿絵:江戸時代、賑わった高砂神社祭礼の風景(高砂神社提供)

◇きのう(8/10)の散歩(12.343歩)

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コメント (3)   この記事についてブログを書く
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3 コメント

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当初、鉄道が東二見から高砂、飾磨を通る計画 (高砂の藤原です。)
2018-05-06 20:07:51
根拠は、出典を?鉄道忌避伝説では?
明治山陽鉄道 (高砂の藤原です。)
2018-09-24 21:12:05
「高砂、飾磨を通る計画だった」間違いだと思いますが。「日本鉄道史」を読んでから見解をお願いします。
鉄道忌避伝説 (黒田 憲一)
2018-09-27 08:44:55
「高砂 飾磨を通る計画だった」「最初は加古川を通るように計画されていなかった」
 高砂市史 加古川市史 兵庫県史 新日本鉄道史・上(川上幸義著)のどこにも高砂・飾磨経由の記述が見えません。唯一Wikに(曽根駅参照)ありますが出典に信頼がありません。
 橋梁 隧道 地盤どれをみても現行路線が最良かとおもわれます。
 私見も忌避伝説の類とおもいます

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