ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

文観(22) 鎌倉幕府滅ぶ

2020-09-16 10:59:07 | 文観(もんかん)

      鎌倉幕府滅ぶ

 元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。

 そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。

 死者は600人、みな切腹して果てました。

 鎌倉幕府は滅びました。

      文観の活躍

 元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。

 引き続き文観が鬼界ヶ島(硫黄島・鹿児島県)から帰ってきました。

 その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)

  ・正慶二年(1333)  硫黄島から帰洛

  ・建武元年(1334)  このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職

  ・建武二年(1335)  東寺一長者(真言宗のトツプ)

  ・建武三年(1336)  大僧正に任じられる

 しかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、足利尊氏にうらぎられ、吉野に逃げ込みました。

 時代は、めまぐるしく動きました。

     後醍醐天皇、吉野に死す

 後醍醐天皇は、吉野でひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。

 しかし、足利氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天駁は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。

 52歳でした。

 『大平記』は、後醍醐天皇の最期の言葉は「身は、たとえ、南山(吉野山のこと)の苔になろうとも、魂は京都の政権をのぞむ。足利尊氏の首を我が墓前に備えよ」であったといいます。

 後醍醐天皇の墓は、京都に足に向けて築かれています。

 このことは、かれの京都に対するはかりしれない執念を物語っています。(no5089)

 *写真:鎌倉幕府最後の舞台、東勝寺跡

 

 

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