老Jimnyの独り言

還暦…その日暮らしの呟き

あれから…15年か。

2010-01-18 01:51:55 | 記憶
2010年1月17日、日曜日。天気は、たぶんだったかな。

外に出ていないので、実は天気分からず。

今日は、阪神大震災のあった日。


15年になるのか…。


人間の良い部分であり、悪い部分でもある。
極めて重大な出来事でも、忘れてしまう。

忘れなければ、生きていくことすら止めたくなることもあるだろう。
だから、人間には「忘れる」能力が、標準で備わっているのかもしれない。



私は、滋賀県在住40数年。被災した訳ではない。
が、滋賀から距離にして百㎞程度の街で、多くの生命が数日で失われた。

祈らずには居られない。


一人の人間として、哀悼の意を表したい。





(回顧)
十五年前。
まだ結婚してた。

その朝、激震と食器の割れる音で飛び起きたと記憶している。
前日からの雪で、30㎝位は積雪があったかな、確か。

何とか仕事場まで行き、雪かき。
その後、雪かきの疲れを感じつつ、神戸の惨状をTVで見ていた。

それから、日に日に死者の数が増えていった。



時は過ぎ、神戸は復興した。
ルミナリエも十年。



時は流れたが、…。
この記憶は、少なくとも年に一回、この日に思い起こそう。
(想い返せるように、ブログにも書こう。)

そう想った。
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忘れられない記憶 ~「東海豪雨」~

2009-11-02 01:57:42 | 記憶
先日書いたブログの中、回顧として「東海豪雨」について書きました。
自分で書いてて、こんなんメチャレアやん、と思い書きなおすことに。
(誤解の無いように。早々経験できないことを経験した⇒記録に残そう、という意味ね。)


この『東海豪雨』の詳細は、Wikipediaにまとめられています。
詳しくは、そちらを参照してください。



さて、回顧です。
2000年9月11日。確か、東京の展示会の視察だったと思います。
会社の出張で朝から行ってました。つまり、日帰りですね。
バブルの頃と違い、東京出張といえど内容次第で日帰りでしたよ。

実は、この出張、私一人ではなく計3人でした。
展示会終わって、さあ帰るとなった東京駅。
お土産を買うとかで、解散しました。

で、私が17時台の新幹線(もちろん”ひかり”)に乗車。
この時点では、JRから大雨による影響のアナウンスは全くなし。
別の一人は、1本後の”ひかり”に乗って、横浜止まり。
もう一人は、東京駅の既にその時点で運転見合わせになっていた。
というのを、後日聞きました。

横浜止まりの方は、東京に戻って1泊。
次の日、関空経由で翌日午後3時ごろ戻れた、らしい。
もう一人も、東京で1泊し、翌日中央線で夕刻には帰った、らしい。
(翌日AMは、新幹線は未だ止まってました。)

約1時間位の差で、まさに天国と地獄だね
以降、再掲みたいになりますが。



東京駅発後、横浜以降で、止まったり、走ったり。
「運転再会まで、もうしばらくお待ちください」のアナウンスのみ。
結局、三島の手前で止まっちまいました。
それも、駅と駅の中間
しかも、右コーナーで傾いてる箇所で

隣の席は、見知らぬ男性
イケてる女性なら、世間話をする手もあったんだけどさ
おまけに、席ごと右に傾いてるし、とても寝てられなかったな

普段なら、気にも止めない売り子さんも、商品売り切れで来ないし。
ろくに寝られない状態で、情報提供もなされないまま。
唯一の情報源はi-modeだったですが、頻繁に使えばバッテリ切れるし。
充電用のコンセントは数無いし、いざという時に電話使えないと困るし。

実際、閉塞感の中で新幹線の車内で一夜を明かしました。
朝方ウトウトしただけだったな
確か早朝には、水洗トイレ用の水も無かった状態でした。


翌朝、三島駅で下車させられました。
「この列車はここまでです」ってね。
駅員さんが、菓子パン1個だけくれましたが…

会社にも連絡を入れました。
まさか、車中泊しているとは思っていなかったらしく、当時の上司も驚いてたな。
「まあ、気を付けて帰ってき~」って。
言われるまでもなく、早く帰りたかったですよ


新幹線の運転再開の見込みが立たない以上、駅員さんの指示に従うしかなかったな。
在来線の普通列車の案内があったが、これもダイヤどおりではなかった。
つまり、次が何時か分からない。
少しでも「家に近づこう」としか思わなかったです


既に古い話なので、記憶に自信が持てないです。
三島を何時発か、忘れました。忘れましたが、9~10時頃だった気が。
三島発の普通列車を、確か静岡で乗り継ぎ。
静岡発の普通列車を豊橋で乗り継いだと。
その豊橋発の普通列車も、岡崎”矢作川”が増水で運転見合わせでストップ。

三島から岡崎まで、ず~っと立ちっぱなしです。ず~っと。
運転見合わせのアナウンス。新幹線も、運転見合わせのまま。
呆然としたのを覚えています

でも、少しでも早く帰りたい一身で、現「愛知環状鉄道」に乗り換え。
JR中央線高蔵寺駅に向かい、乗り換えて名古屋入り。
名古屋駅に着いて、少しホッとしたかも。
全体の行程で、かなり帰ってきた感じがしたもの。

しかし、今度は名古屋以西の在来線が運転見合わせ。
その時分には新幹線が動いてるのが分かり、必死で切符を購入。
下りの新幹線に乗れて、やっと帰れると思いましたよ。


今にして思うと、豊橋で待ってたら新幹線に乗れたのか?
運不運もあるけど、情報無さ杉たのね


名古屋駅発の新幹線の車窓。
名古屋駅西部が水没しているのを見ました。
すでに、薄暗くなっていたと思います。

米原到着は19時前だったと記憶しています。
米原駅で、特急券の払い戻し。
ほぼ24時間かかって、帰り着くとはね。
駅員さんに、文句言う気力も残ってなかった。

米原駅まで、当時付き合ってた女性に迎えに来てもらったな。
感謝しました
もう、歩くのも嫌だったしさ



実は、必死に帰り着きたかった訳があって・・・。
その翌日から、休暇で白浜に行く予定だったんね、マジ。
もちろん、迎えに来てくれた女性とよ。

それが、唯一の希望の光だったのかな

たぶん、一生忘れない、忘れたくない、自慢できる出来事でしょ
(忘れたくないので、無理やり日記に落としてみました






(回顧)
2000年の出来事を、いまさら思い返した理由。
社内教育でプレゼンの研修。
「あなたの忘れられない出来事」を人に伝える、という課題。

忘れられない出来事?、・・・。
思い返したときに、離婚とこの東海豪雨でした(苦)。


忘れられない出来事が無い、って言うのもね。
離婚以外に、1つでもあって良かったです
    

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