私は子供の頃から人見知りだった。悩み事を打ち明けることはなかった。高校卒業のときに指導員から「なにも問題がないことが問題だ」 と言われた。孤独を好んでいたわけではなく、誰とでも友だちになれる人を羨ましく眺めていた。そんな対人コンプレックスは今でも変わらない。だから「個性」や「自分らしい」生き方にいつも憧れてきた。
〈個性とは何か〉
「個性」と「自分らしさ」はニュアンスが違うが、カルチャー誌などでは同枠で扱われていることが多いので一緒のテーマにしてみた。 共通しているのはどちらも自分がより良く有りたいという願望と、もう一つは個人化へ向かっていくことだろう。
夏目漱石『私の個人主義』では、個性の発展を遂げたいなら相手の個性も認めること、権力や金力に寄りかからないこと、人格の修養の必要性が述べられている。そして個性には淋しさが潜んでいるという。しかしこの講演録(大正三年)より五十年前の江戸時代に「個性」 という言葉はなかった(たぶん)。 産業社会による進歩と自由の広まりに伴い、勤労、勤勉を強いられて、社会システムに調味料のように巧みにまぶされてきたのが「個性」や「自分らしさ」だといえる。
さらに現代では個人への無関心さを装うように「自己決定」や「自己責任」が付随されて、一人一人が重荷を背負わされているように思う。個性や自分らしさへの誘惑は、過去から現代までプロパガンダやコマーシャリズム(商業主義)に利用されてきたように思う。
〈個性はどこにあるのか〉
一般的に個性的な人という場合、特徴的な話し方や振る舞いが掲げられる。 思いつくままに羅列すると長嶋茂雄、王貞治、イチロー、淀川長治、ピカソ、田中角栄、きゃりーぱみゅぱみゅなど。個々人の特徴が自然に表れる場合もあれば、あえて個性らしき特徴を演出する場合もある。スタイル(様式)を作った方が楽だし、外見からも分かりやすい。
しかし独自な見方や考え方という点を含めれば、外見ではない個性への気づきも重要だろう。その人の考え方に耳を傾けることによって、お互いの立場を理解し相違点を知る。考えを押しつけるのでもなく、異なる考えを排除するのでもなく、権威に与することなく、お互いが議論したうえで考えを高めあう。それぞれの環境における考え方が個性となり、それらに応答することで個性は産み出されているともいえる。
〈詩における個性とは〉
詩作を含めた創作において、大方の人が個性や自分らしさは意識しないのではないだろうか。私は詩は外部(事実)表現だと考えているので、むしろ個性や自己を排し外部に目を向けなければならないと考えている。芸術作品を評価する場合、なんとなく雰囲気が良いとか好みや感覚に頼った見方をする場合も多く、「あの作品は個性的だ」と言ってしまうこともままある。この場合はその作品の分析が足りないか、評する言葉を持ち合わせていないかのいずれかだろう。 「個性・自分らしさ」の意味は曖昧であり都合の良い言葉でもある。
またこれらは周囲が勝手に評価することであり、自分から求めても悩みの種が増えるだけのような気がする。つまり好きなように書き、好き勝手なことをして愉しめば良いのではないかという、ごく単純なところに帰着する。
自分事だが最近、引きこもって誰とも会わない生活をしている。そうすると自分らしさなんてどうでも良くなるから不思議だ。合評会に参加していたときは評価を気にしてビクビクしていたものだ。
※「夏目漱石人生論集」 講談社より
個人詩誌「風の中へ」第4号 2023.10.10