平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2005年10月23日 愛するときに

2007年03月15日 17時24分20秒 | Weblog
    愛するときに

 私たちは、他者を愛することを教えられている。今日の朝の祈祷会でのこと、果たして人間に、真実に他者を愛することができるのか、との素朴な問いがあった。
 ある方は、連れ合いは、自分をとても愛してくれているが、私の方はそれに応えられるほどの大きさの愛だろうか、と思うというのだ。また、ある方は、自分は好き嫌いがはっきりとしていて、嫌いになったら、もうその人との関係は冷たいものだということだった。
 連れ合いが死んだ後、自分に注がれていた愛情を思うようになった方。嫌いな人ともお付き合いは普通にするが、悪意をもって何事かをするなどのマイナス的な振る舞いでなければゼロでも十分でないか、と考えているという方。家庭内においては、結構汚い言葉も飛び交うが、互いを思い合って生きている家族だとは思う、という方。愛すると一言でいっても、そのプロセスは一筋縄ではいかないことがわかる。
 私は「善いサマリア人のたとえ話」で、再発見したことがある。皆さんは「何ーだ」と思われるかもしれない。それは、あのサマリア人は、何もかも放り出して、瀕死の旅人をずっと付きっきりで看病していたわけではなかったということだ。
 仕事があって、仕事をそれなりに済ませて、また帰りにこの旅人のところへ立ち寄ると言ったのだ。私たちには、他者を愛するとき、犠牲的な働きはある程度必要とされるだろうが、「できるかたち」でやるしかない。彼は仕事も済ませるつもりだった。


平良 師