平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2005年7月10日 時というもの

2007年02月28日 23時09分42秒 | Weblog
     時というもの

 2005年度も早いもので3ケ月が過ぎてしまった。一年の四分の一。何やかやと慌しくやっているうちに過ぎる時もあれば、何もしないで過ぎていく時もある。過ぎて欲しくない時もあれば、早く過ぎ去ってくれと思う時もある。
 長く感じる時もあれば、えらく短い時もある。誰かと一緒に過ごす時、孤独に過ごす時。楽しい時、寂しい時。愉快な時、不快な時。時はあるものではなく、作るものだという。
 時が与えてくれるものは、忘却、風化、まれに和解。コヘレトの言葉3章1節には、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と書かれている。
 人それぞれに時を定めるのは、神様である。今、どうして、このタイミングでこのようなことが起きるのか。あと、1年待って欲しかった。これから始まると思っていたのに。これで、最後だと思っていたのに。
 絶好のタイミングだった、など、神様が、定められた時というのは、恵みと思われるものもあれば、承服し難いこともたくさんある。
 3章の11節には、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」とある。だから、事柄が半ばにして、終わったように見えても、それは実は希望に続く話だったということもあるし、逆に、ハッピーになったかに思えたが、どっこいそうではなかった、ということもあるということだ。
 それは千年の長さで計画されてある出来事かもしれない。それを見極めることのできるお方は、神様だけなのである。


平良 師