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高平小五郎の隠密外交

2007-02-25 19:21:55 | 高平小五郎の隠密外交

はじめに

 高平小五郎は、岩手県一関市出身の外交官である。彼は駐米公使時代の1905(明治38)年には、ポーツマスで開かれた日露講和会議の全権として、小村寿太郎外務大臣と共に交渉に当たったことで知られている。さらに、在米大使時代の1908(明治41)年に締結された、高平・ルート協定は、日米関係のみならず東アジアにおける国際関係の安定をもたらしたものとして、評価されている。
 体調不調を理由に在米大使辞任を申し出た彼は、1909(明治42)年9月2日に帰朝した。その後、無任所・待命特命全権大使となり、翌1910(明治43)年の伏見宮訪欧に随行した。1911(大正元)年の明治天皇の大葬に当たっては、国賓随伴委員としての役割を果たした。彼にとっては、これが最後の外交面での活動であったと、これまでは一般に理解されていた。

 (詳細は、拙著『ニューヨークに輝く高平小五郎―明治時代のアメリカにおける外交官の業績―』ご参照。)

 筆者は、最近、注目すべき資料を発見した。それは、1910年当時の日本宛の外交電報と、高平の自筆草稿、そして当時の米国大統領タフトへの前大統領セオドアルーズヴェルトからの手紙の3点からなっている。これらの資料を総合的に検討すると、1910年当時に、高平が日米友好関係の維持に極めて重大な役割を果たしていたことは、明白であると筆者は確信できるに至った。
 以下は、その概要である。

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