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ニューヨークに輝く高平小五郎

2006-10-21 11:17:55 | ニュ-ヨークに輝く高平小五郎

『ニューヨークに輝く高平小五郎―明治時代のアメリカにおける外交官の業績―』と題する冊子を発行しました。

著者は平野恵一、発行所は(株)富英社で定価千円です。

ポーツマス講和会議などで活躍した明治の外交官高平について在アメリカに絞ってまとめたものです。

講和会議前後のことや原敬との関係又、ワシントン・ボトマックの桜並木のことなどに言及しています。表紙にはニューヨーク・アメリカ自然史博物館の、高平が中心となって描かれているポーツマス講和会議の大壁画がつかわれています。

又、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で述べている高平像に真っ向から反論しています。ご一読いただければ、高平が日本外交官の先達の一人であったことに、ご納得頂けると存じます。

・下記の店頭で販売中です。

一関市;北上書房
盛岡市;東山堂ジュンク堂書店
新宿区;紀伊国屋書店新宿本店

東北高速自動車道;前沢サービスエリア(下り線)売店

・また、下記へ、直接お申込みくだされば郵送いたします。

(株)富英社

tel&fax;03-3362-8971 メール;hiranoke@hiyper.ocn.ne.jp

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(質疑応答)

2006-06-26 07:48:51 | ニュ-ヨークに輝く高平小五郎

(質疑応答)

質問 ポーツマス講和会議当時の大使は、どなただったのでしょうか。

講師 本論でも申し上げましたが、日露講和条約が正式に成立するまで、批准書の交換が行われるまでは、特命全権公使が米国で日本を代表する駐在外交官のトップでした。高平は、初代の公使、森有礼よりちょうど11代目で、最後の特命全権公使です。公使館は大使館に昇格して初代大使は青木周蔵がなります。高平の直前の公使は、日露講和会議で高平と共に全権となった小村寿太郎外務大臣です。

質問(同) 日ロ交渉の頃の高平のお耳の状況は、どうだったのでしょうか。

講師 その頃の高平のお耳の具合はそれほど酷くはなかったでしょう。ただ、幣原喜重郎が書いた「回想の高平小五郎」によりますと、「高平は非常に寡黙な人で、若い我々がいろいろ質問したり、議論をしても、時として、全く別のことを答えることが多かった」とあります。

又、当時から相当たった昭和13年に外務省が金子堅太郎から聞き取りした調書の中に、こういう主旨のくだりがあります。「高平は耳が遠く、ルーズヴェルトも自分が言ったことを高平は分かっているだろうかと不安がっていた」ルーズヴェルト云々のことは、事実かどうかはともかく、このようなことから、高平はもともとから、お耳は余り良い方ではなかったろうと想像されます。

質問(同)批准までの日ロ交渉の経過を、もう少し詳しく教えて下さい

講師 交渉経過については、日露ともに、朝鮮半島の日本の自由処分権、満州からのロシア軍の撤兵、南満州における日本の鉄道敷設権これらのことはわりとすんなりと合意したのですが、交渉開始直前に日本が占領した樺太の割譲と賠償金については日本の要求をロシアは頑として認めませんでした。会議は決裂かとなったのですが、日本政府は、賠償金と領土割譲をあきらめて合意するように一度は訓令します。

 しかし、ルーズヴェルトが自国の在ロシア大使、マイヤー・Meyerを使ってロシア皇帝に働きかけたところ、ロシア皇帝は樺太の南半分は譲渡してもよいと認めます。しかし、日本全権団はこのことをルーズヴェルトから一切知らされません。

 東京のイギリス公使、マクドナル・C.M.MacDonaldがこの情報を本国政府経由で得て、石井菊次郎通商局長を公使館に、雑談でもしようと呼んでこのことを知らせます。日本政府は、改めて訓令を追加して南半部の要求を行うよう指示し、賠償金は要求せず、樺太南半分の割譲で合意するわけです。

 ここで考えさせられることは、何故ルーズヴェルトはこのことを日本全権団側に知らせなかったかということです。特に、日本全権団は、ルーズヴェルトとの連絡要員として、アメリカ世論工作の使命が終わった金子堅太郎をわざわざニューヨークに残し、連絡用の暗号電報まで用意していたのです。それにもかかわらず、マイヤー大使からの情報が大統領に届いたと思われる直後に、金子がオイスター・ベイの大統領別荘を訪ね懇談しているにもかかわらず、この重大情報を金子には伝えなかったことです。

 金子はルーズヴェルトとの友情が深いということでアメリカに派遣されたと喧伝されています。しかしこの点を見る限り、金子の働きに対する評価にも、大統領との友情関係にも、私は疑問を感じています。

(完)

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7 おわりに

2006-06-26 07:45:24 | ニュ-ヨークに輝く高平小五郎

7 おわりに

 本日は、師走のお忙しい中、私の拙い話をお聞きくださいまして、感謝の言葉もないほどです。大変失礼かもしれませんが、最後に私の願いをお聞き下さい。

 12月になりますと日本全国各地でベートーベンBeethovenの名曲、第9交響曲が演奏されます。合唱に直接参加される方も多いと存じます。この第9が初演されたのは18245月の7日ウィンと聞いています。そのとき、ベートーベンも指揮台には立ったそうですが、タクトは別の人がとったそうです。演奏が終わって聴衆の大拍手が鳴り止まなかったにもかかわらず、一向にベートーベンが聴衆の方に顔を向けません。関係者の一人かそっと彼を聴衆の方に向けさせた姿を見て、聴衆はあらためて、この大作曲家のお耳が不自由であったことに気付きました。その会場は、本当に大声で泣く人も出るほどの感動に包まれたと記録されています。

 世界の外交官の中でお耳が不自由な人は一人もいないとまで、私は断言できません。しかし、少なくとも日本の外交官のなかで耳のご不自由な外交官は、私の知る限りでは、ここ一関ご出身の高平小五郎、唯一人であります。こんなこともあって、ベートーベンの第9をお聞きになったならば、少なくとも年に一度は、高平の功績を思い出していただきたいという、私のお願いを吐露させていただきまして、私の拙い話を終わります。

 ご清聴、誠に有難うございました。(拍手)

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6-4 国賓随伴委員に任命

2006-06-26 07:42:09 | ニュ-ヨークに輝く高平小五郎

6-4 国賓随伴委員に任命

 陛下の信頼を示すその2は、先ほど述べたように、日露戦争の後始末をつけて東京に帰ってからのことです。イタリアの初代大使としてローマ・Romeに赴任前のことですが、日本と同盟関係にありました、イギリス皇帝が、同盟国日本が戦争に勝ったことは誠に慶賀に堪えないとして、英国最高位のガーター勲章・the Garter, the highest order of English-knight-hoodを明治天皇に差し上げるべく、英皇族のコンノート殿下・Prince Aruther Connaughtを差し遣わすことになります。日本にとっては最大の国賓を迎えるわけです。コンノート殿下は自国の東洋艦隊を引き連れて東京に参ります。この国賓を天皇に代わってつつがなくお迎えするために、天皇は接伴員を任命します。これは内閣人事ではなく天皇の思し召しにより、宮内省が発令 します。昭和15年8月に、新岩手日報社から紀元2千6百年記念として発行された『岩手県大鑑』によりますと、陸の乃木希典、海の東郷平八郎、と共に外務の高平小五郎があげられています。高平が如何に明治天皇からのご信頼が厚かったかが分かります。当時の主権者は天皇ですが現在の主権者は国民です。主権者という観点から今日的視点で言えば、高平は如何に国家的人望のあった外交官かということが分かります。私は、以上の2点から、高平への明治天皇からのご信任が厚かったと考えています。

確かに、口八丁手八丁の外交官に比べると、高平は不器用な外交官であったかもしれません。しかし、彼は国難に当たっては、信頼に徹して何らかの成果を引き出してきた外交官です。口下手で能書きは一切言わずに己の仕事を見てくれという職人気質の原型がそこにあると感じ、高平を知れば知るほど尊敬の念が増してくる日々であります。

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6-3 伏見宮のお見舞い

2006-06-26 07:39:52 | ニュ-ヨークに輝く高平小五郎

6-3 伏見宮のお見舞い

 私が、明治天皇のご信頼が高平に対して厚かったという観を深めましたのは、伏見宮の行動を知ってであります。

 伏見宮は、明治371023日に横浜を出発し、サンフランシスコ・San Francisco1110日到着、15日から17日までワシントンに滞在、その間ルーズヴェルト大統領とも会見します。この案内は高平がニューヨークで病気治療中のため、日置臨時代理公使が行います。そして、20日から23日までセントルイスでの式典に参列し、いったんボストンを訪れた後126日から12日までニューヨークに滞在します。そしてサンフランシスコ経由帰国します。

この行動を仔細に検討しますと、特に、朝日新聞の明治38年1月14日から16日まで連載された「伏見宮と紐育(高生との署名記事、13)」の最終項に「12日には、病中の高平公使をホテル・マセステックに御見舞い御遊ばされ」という一文があります。これからすると、伏見宮はニューヨークを発って帰路につく前に、最後に病気治療静養中の高平を見舞ったことがわかります。当時高平はまだ男爵になる前で、岩手県士族ではありますが、いわば一般人であります。

 その一般人を皇族が、しかも、天皇の名代が見舞うということは当時の常識では考えられないことです。このことは、現在の成長著しい優良企業の社長とそれ支える優秀な社員との関係、当時の言葉で言う「君臣水魚の交わり」の関係を表していると存じます。そこで私は、次のように考えれば合点がいくなと思います。

 伏見宮は、セントルイスの行事も無事終え、いよいよ12日にニューヨークを発って帰路につきます、という報告といいますか、復命電報を明治天皇へ打電した。この電報に対して明治天皇から、「ご苦労であった」というねぎらいの言葉に加えて、「最後に高平を見舞ってから東京に帰ってこい」というお言葉が追加されていた。だからこそ、ご名代の宮が高平を見舞うことになったと考えることが、自然ではないかと思うに至りました。

なお、伏見宮が高平を見舞ったという記録は、私の知る限りでは、この朝日新聞の記事のみです。

国立国会図書館所蔵の『伏見宮貞愛親王殿下御訪米日程』、この本は誠に不思議な本で、誰が著者でどこで発行したのか、いわゆる「奥付」の無い本です。ただ、明治後半から大正、昭和前期の外交評論家として名高い外交官出身で早稲田大学教授も務められた法学博士「信夫淳平寄贈」との朱印が押してあることからしても精度の高い本だと推測されますが、この本にも記載されていませんし、宮に随行した弁理公使佐藤愛麿(さとうあいまろ。後の在米大使)や、当時のニューヨーク総領事内田定槌(うちださだづち。後の在トルコ大使。彼の東京での屋敷が横浜で「外交官の家」として公開されている)の外務大臣に対する報告書にも記載されていない。

余りにも恐れ多いことで、公使記録には残さなかったものと私は考えます。

また、高平病気中臨時代理公使を務めた一等書記官日置益 (ひおきえき。後の在ドイツ大使)の報告書によると高平の病気発病の顛末は「伏見宮訪米の準備を取り仕切っていた高平公使は、宮が訪問されるニューヨークとボストンのことが最後に気がかりとなり、明治37年10月27日から書記官埴原正直(はにはらまさなお。日露講和会議随員、後の在米大使。大使在任中「排日移民法」成立、その責任を取って大使を辞任し以後一切の官職から身を引く)を伴ってニューヨークへ出張した。然るに、30日、突然盲腸炎に襲われ、手術を受けた。2-3日間は生死の境をさまよわれたが、手術は成功し、医師の判断によると1ケ月もすれば回復とのことであるので、既に宮は東京をご出発済みのことでもあり、自分がその間責任者となって対処する以外に方法はないと、大臣に申し出、臨時代理公使に任命された。宮の歓迎等対応は高平公使が万事遺漏無く手配・準備済みであったので、大成功で終了しえた」との概要で、相当てんてこ舞いした様子が行間から読み取れるものとなっています。

伏見宮が高平を見舞ったホテルの名前は今風に記せば、マジェステック・Majesticで、ニューヨークのシンボルともいえるセントラルパークCentral Parkやカーネギーホール・Carnegie Hallからも近く、1904年創業の知る人ぞ知る、今日、超一流とまではいいきれませんが重厚なホテルです。

あとの話ですが、このことがご縁となったことでもありますまいが、高平は、在米大使を最後に帰国して無任所大使として待命中の明治433月、ロンドンで開催された日英博覧会に日本国代表として出席される伏見宮の随員をおおせつかります。そして滞欧中、逝去された英国皇帝・エドワード7EdwardⅦの国葬に明治天皇の名代として参列することとなった同宮の随員として同国葬にも参列します。しかし、この外遊は外見上のセレモニー要員以上に隠された外交上の密命あったと推測されますが、その話は別の機会に譲らせていただきたいと思います。

先ほど、高平が大臣に「伏見宮のお供が出来ない」とのお許しの電報を打ったように話しましたが、この日置からの報告によりますと、高平自身はとても電報など打てる状況ではなかったことが分かります。

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