WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

マイルス・デイビスのワーキン

2006年07月22日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 12●

MILES DAVIS        WORKIN'

Scan10009_1  



 いわずと知れたマイルス・デイヴィス・クインテットのプレスティッジ・マラソンセッションの一枚。1956年の録音だ(私の生まれる前だ)。ジャズをおぼえたての頃、熱病にかかったようによく聴いた一枚。若い頃はお金がなくて、レンタルで借りたレコードをカセットテープにおとして聴いていた。CDを買ったのは10年程前だったか。

 今、本当にしばらくぶりに聴いている。心にしみるとはこういうことをいうのだろう。やはり、こういう作品はたまに聴くべきだ。何というか、心に栄養をあたえてくれる。このブログの「今日の一枚」シリーズを書くようになってから、昔聞いた作品をもう一度聴いてみようという意志がでてきた。いい傾向だ。

 好きなのは、もちろん ① It Never Entered My Mind 。ミーハーといわれようが何といわれようが、断然この曲・この演奏が好きである。マイルスのプレイもさることながら、この曲の白眉は何といっても、Red Garland のピアノだ。イントロからバッキング、オブリガードまで、なんと繊細でリリカルな響きなんだろう。まるで、こわれやすいガラス細工を扱うように注意深く優しい手つきでピアノを弾いていく。胸がキュンとしめつけられるような瞬間が随所にでてくる。Red Garland は特に好きなピアニストではないが、この演奏は別である。こういうことがあるからジャズ聴きはやめられないのだ。

 


スタン・ゲッツ=ケニー・バロンのピープル・タイム

2006年07月22日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 11●

Stan Getz = Kenny Barron   

People Time

Scan10008_4  晩年のスタン・ゲッツをどう評価するかは、意見の分かれるところであろう。一定の評価はしつつも、ゲッツの本領は若い頃の流れるようなアドリブ演奏にあるとするのが一般的な批評家の傾向であろうか。若いゲッツのプレイにはスムーズで輝くような天才的なフレージングがあった。癌と戦いながら音楽を続けた晩年のゲッツの演奏は、もちろんすばらしいものであるが、音楽以前に、人生の物語がまとわりつき、音楽が「みえにくい」ということがあるのだろう。たとえば、村上春樹の近著意味がなければスウィングはない』(文芸春秋)のつぎのようなことば、

 もっとも僕としては、晩年のスタン・ゲッツの演奏を聴くのは、正直なところいささかつらい。そこに滲み出てくる諦観的な響きの中に、ある種の息苦しさを感じないわけにはいかないからだ。音楽は美しく、深い。とくに最後のケニー・バロン(ピアノ)とのデュオの緊張感には、一種鬼気迫るものがある。音楽としては素晴らしい達成であると思う。彼はしっかりと地面に足をつけて、その音楽を作り出している。しかし、なんといえばいいのだろう、その音楽はあまりに多くのことを語ろうとしているように、僕には感じられる。その文体はあまりにフルであり、そのヴォイスはあまりに緊密である。あるいはいつか、そのようなゲッツの晩年の音楽を、自分の音楽として愛好するようになるかもしれない。でも今のところはまだだめだ。それは僕の耳にはあまりに生々しく響く。そこにはもう、かつてのあのイノセントな桃源郷の風景はない。そこではスタン・ゲッツという一人の人間の精神が、自らの創り出す音楽世界に限りなく肉薄している。

 まったく、その通りだ。しかし、だからこそ、晩年のスタン・ゲッツは、私をひきつけて放さないのだ。その演奏はまさに、天からの啓示のように、わたしの前に現れた。それは、カーラジオだったかも知れないし、友人の部屋のレコードだったかも知れない。しかしとにかく、その全身から搾り出すような緊密で深い響きは、私の身体をしめつけて離さなかった。何だこの音は……、誰なんだこの演奏は……、といった感じだった。金縛りとは、こういう現象をいうのだろうか。

 すべての演奏が素晴らしい。だが、なんといっても、DISK2の① first song が傑出している。その全身全霊をこめて創りだされたような音楽の響きに圧倒される。文字通り、命を削って創りだされた音楽のように感じられる。まさに、先の村上春樹氏の言のとおり、「あまりに生々しい」演奏である。実際、私自身この素晴らしい演奏を気軽に毎日聞く気にはなれない。けれども、ときどき身体が求めるのだ。砂漠の民がオアシスの潤いを求めるように、乾いた心が晩年のスタン・ゲッツの音楽を欲するのだ。

 晩年のスタン・ゲッツ語るとき、ケニー・バロンというピアニストの存在は欠かせない。癌に犯されながらもステージに立ち続けたスタン・ゲッツを支えたのは、まさしくこのピアニストであり、彼の美しいピアノがあったからこそ、あの濃密な演奏は生まれたといってもいい。このアルバムは、そのケニー・バロンとスタン・ゲッツのデュオアルバムである。二人の緊密なかけあいが手に取るように感じられ、また身を削りながら「魂の演奏」を展開するゲッツの傍らに寄り添い、それをサポートするケニーの姿が目に浮かぶような作品である。このすばらしい作品について、ケニー・バロンは次のように語っている。

 このレコーディングに収められた音楽が格別のものに思えるのは、これがスタン・ゲッツの演奏を刻んだ最後のレコーディングであるという以外に、その音楽が・・・・・ガンのもたらす苦痛にもかかわらず、あるいはそれゆえになお一層・・・・・リアルで誠実で、ピュアでビューティフルな音になっているからである。

 スタン・ゲッツが死んだのは、1991年6月6日だった。


エリック・ゲイルのタッチ・オブ・シルク

2006年07月19日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 11●

ERIC GALE

TOUCH OF SILK

Scan10005_1  たまには、こんな音楽もいい。脅威のワンパターン・ギタリスト、エリック・ゲイル。もちろん、褒めことばだ。次はこういうフレーズがくるだろうなと思うと、やっぱりくる。手ぐせなのかどうかわからないが、ワンパターンである。それでも気持ちいい。いや、それが気持ちいい、といった方がいいのかも知りない。エリック・ゲイルを元スタッフのギタリストと紹介するのはもはや適当ではないであろう。スタッフというバンドより、エリック・ゲイルその人の方が存在感があるからだ。それ程に、彼のワンパターンなギターワークは、オリジナリティーに溢れるものだ。

 1980年作品のこのアルバムに出会ったのは学生時代だったから、同時代のことだ。友人からカセットテープを借り、ダビングして繰り返し聴いたものだ。出はじめのウォーキング・ステレオを耳にかけながら、街を歩く僕の耳元では、しばしばこのアルバムが鳴っていた。その頃からこの作品は隠れた僕の愛聴版であり、なんとつい最近までそのダビングしたカセットテープを僕はしばしば聴いていたのだ。『スウィング・ジャーナル』誌でこの作品の小さなCD紹介を見つけ、CDを購入したのはつい半年ほど前のことだ。

 ⑤With You I'm Born Again が最高だ。ワンパターンだがの繊細で温かみのあるソロと、抜群のオブリガードでアクセントをつけるギター。疾走するキーボードとサックス。友情出演のサックスは、なんと、われらが時代の必需品 Grover Washington Jr だ。この疾走感。メランコリックな曲想。味わい深いハーモニー。このアルバムのベストトラックだと思う。

 ライナー・ノーツによると、エリック・ゲイルが死んでしまったのは1994年のことだ。まだ若いだろうに……、と思ったことを憶えている。つい最近のことのような気がするのに、もう10年以上もたっている。グローバー・ワシントン・ジュニアが亡くなたのはいつだったろうか。エリック・ゲイルの後だったろうか。それにしても、人はどうしてこうも次々死んでしまうのだろうか。多くの人たちが自分の前から消え去っていく、それがきっと年をとるということなのだろう。

 ところで、この作品のジャケット裏には、ひらがなで「きぬにふれて えりっくげいる」と書かれている。ライナー・ノーツによると、エリック・ゲイルは日本好きで、渡辺貞夫ら日本人ミュージシャンとの交流も多く、奥さんも日本人女性だったようだ。奥さんの名前は、マサコさんという。


 ドラマーが歌を歌ってもいいじゃないか

2006年07月18日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 9●

Grady Tate    

All Love Grady Tate Sings

Scan10003_2  ドラマーが歌を歌ってもいいじゃないか。(昔かの岡本太郎先生が「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」といっていたのを思い出す)実際、ドラマーにしては、ということばを除外しても、いい歌を聴かせる男である。声には艶があり、まっすぐにのびてくる。くつろいだ雰囲気の中に、歌の心をまっすぐに伝える男である。

 この男はドラマーとしてもなかなかの奴であり、調べてみたら、私のいくつかの愛聴版でドラムをたたいていたので、これまたびっくりである。例えば、Stan Getz Sweet Rain 、それから Wes Montgomery A Day In The Life あるいは、Zoot Sims Soprano Sax Zoot At Ease などだ。これらの作品は、このウェブログでもいずれ取り上げることになるかも知れない。

 2002年録音と比較的新しい本アルバムには、多くの人が口ずさむスタンダードナンバーが多く収められており、その中には私の大好きな曲もいくつかある。例えば、② My One And Only Love、 ④ What Are You Doing The Rest Of Your Life、⑦ In A Sentimental Moods、Estate などがそれだ。

 そんなことを書き綴りながら、私はいつしか歌を口ずさんでいる。今日は安酒 Canadian Clubだ。ちょっと酔いながら、好きな歌を口ずさむ。人生の愉しみのひとつだ。


ビル・エヴァンスのクインテッセンス

2006年07月17日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 8●

BILL EVANS       QUINTESSENCE

Scan10004_1  今日の二枚目である。ビル・エヴァンスである。ビル・エヴァンスはすごく好きだった。もちろん、今でも好きである。だからLP・CDもけっこうもっている。でもこれはもっていなかった。不覚だった。責任を転嫁するわけではないが、この作品は評論家のみなさんの評価がすごく低いのである。中には、駄作呼ばわりする方もいらっしゃる。というわけで、購入の優先順位が低かったのである。言い訳をするわけではないが、限られた予算の中で、LPやCDを購入するためには優先順位というものが必要なのだ。

 昨年のお盆のことだ。たまたま立ち寄った宮城佐沼の俗物ジャズ喫茶「エルヴィン」でたまたまかけてあったのだ。けっこういい作品だなと思い、ジャケットを確認すると、何とビル・エヴァンスだ。知らなかった。いい作品ではないか。バックはエヴァンスの作品にしては、ダイナミック。エヴァンスらしからぬ作品ではあるが、またそれはそれでジャズとして面白いではないか。評論家の皆さんは、エヴァンスの到達点を基準に、そこまでの発展の過程を評価する。いわば、単線的段階発展論だ。けれども、人間は目的合理的に生きているわけではない。紆余曲折があるのだ。結果から遡及する見方では、この作品ははずれるのかも知れないが、ジャズとしては十分いい作品だ。実際、④チャイルド・イズ・ボーンなどは感動ものだ。

 夜、仕事をしながら、わたしは時々このアルバムを再生装置のトレイにのせる。ジャケットもなかなかいいではないか。


板橋文夫の一月三舟

2006年07月17日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 7●

板橋文夫   一月三舟

Scan10002_3  この三連休はずっと仕事だったが、比較的時間の余裕があったので、いつもよりはかなり音楽に接することができた。いい3日間だった。昨日はアルバート・アイラーを真剣に聞いたので、ちょっと、叙情的なものを聴きたいと思い、いくつか聴いたうちの一つである。

 板橋文夫といえば、5~6年前に隣町のホールであったコンサートを聴いたのが最初だ。この作品もそのとき購入したものだ。そのときは、金子友紀という民謡歌手と一緒だった。はっきりいってホールはガラガラだったが、板橋の演奏は十分に感動的だった。民謡歌手の歌う「渡良瀬」がこれほどジャズを聞きに来た聴衆の胸を揺さぶるとは想像もしなかった。わたしは今でも思っている、もう一度聴きたいと。板橋のプレイは本当に熱いものだった。マッコイ・タイナーをきちんと消化している日本人は板橋だけだと、どこかの文章で読んだことがあるが、それもうなづける演奏だった。。そして何より、ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)だ。板橋はコンサートの中でしばしばピアニカを使ったが、ピアニカという楽器がこれほどエキサイティングで、繊細で、感動的な音をだす楽器だとは、考えもつかなかった。はっきりいってすごい。本当にすごかった。

 『一月三舟』は、全篇板橋のピアノソロによる作品である。ときに繊細に、そしてときに暴力的に、板橋は日本的な旋律を奏でる。「日本人」というアイデンティティーを確かめるかのようにだ。もしかしたら、これをJAZZとは呼べないのかもしれない。けれどもそこにはまぎれもなく日本人の音楽家のひとつの世界がある。

 この作品にも収録されている「グッバイ」が好きだ。名曲である。この曲は、今は亡き中上健次原作の映画『十九歳の地図』(監督・柳町光男)の中で繰り返し使われた曲だ。のちの中上作品から見れば、この作品は世界に対する陳腐で青臭い違和感を描いたものでしかないが、対象を卑しめなければ確認できない自我、そうしなければ「消えてしまいそうな」薄い存在感。差別の心の構造。そして対象のない怒り。それらをみごとに描き出した作品でもある。この映画の中で名曲「グッバイ」を用いた柳町監督は、鋭いというほかないであろう。「グッパイ」の流れるシーンは、特異な一つの世界を形作っているのだから。

 『一月三舟』は日本のジャズ・ジャーナリズムでは、大きく取り上げられることはなかったように思うが、まぎれもなく日本JAZZの、あるいは日本音楽の名作である。

 ところで、この作品の帯には次のようにある。

 「初めてで、終わり。そして、刹那で、永遠。板橋文夫が静かに奏でるうつくしき18曲」

 ダサい。気持ちはわかるが、まったくダサい。自己陶酔型の素人のことばだ。このようないい作品が、このような陳腐なコピーで売り出されることの悲しさ。はっきりいおう。板橋文夫がかわいそうである。


アルバート・アイラーのラスト・レコーディング

2006年07月16日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 6●

ALBERT AYLER       

NUTS DE LA FONDATION MAEGHT 1970 Scan10002_2

 アルバート・アイラーの『ラストレコーディング』……。どれくらいこのアルバムを捜し求めたことだろう。学生時代、何かの文章でこの作品の存在を知り、是非とも手に入れたいと考えたものだ。例えば、比較的新しい本だが『ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤』(講談社α文庫)所収の次のような文章…………。

 「死の四ヶ月前に録音されたこの作品は奇妙に美しい。おなじみの曲ばかり演奏しているが、何かふっきれていて、叫びというより祈りのようだ。長い試行錯誤の末にアイラーが辿り着いた音楽は"魂の喜び"に満ち、感動的である。」

 どうです、聴いてみたくなったでしょう。

 学生時代にジャズ喫茶で一度リクエストして聴いたことがあったのだが、そのときはまだピンとこなかった。本当は繰り返しリクエストして聴いてみたかったのだが、すでに80年代にはいっていたそのころは、フリーな演奏のリクエストはあまり歓迎されない雰囲気があったのだ。その後、社会人となってこのレコードを是非とも手に入れたくなり、中古レコードなどを何度か探してみたが見つからなかった。CD時代にはいり、発売を期待していたのだが、なかなか復刻される気配もない。そのうち、ときどき思い出す程度ですっかり忘れてしまい、いつしか20年たってしまった。半年ほど前、たまたまインターネットで検索してみたら、何と輸入版だがCDが出ているではないか。すぐにインターネットで注文すると、1週間ほどで届いた。インターネットはすごい。こうして私は、20年来探していたアルバムを手に入れたのである。

 早速視聴してみたが、やはりピンとこなかった。BGMとして聴ける音楽ではない。仕事に追われ、精神的な余裕がなかったのだ。それから約半年、このアルバムはCD棚に置き去りにされていた。今日、仕事はあったが時間的にはかなり余裕があったので、ふと思い起こして再生装置のトレイにのせてみた。衝撃的だった。何かじわじわと伝わってくるものがあった。なぜこの衝撃をいままで感じられなかったのだろう。不思議だ。前半はサックスというより、動物の鳴き声ようだった。生々しい、ネイティブな何かの声のようだった。アイラーは、よりリアルな、手触りのある、確かな何かを捜し求めているようだ。そして後半、アイラーが楽器を通して何かを語りかけようとしているのがありありとわかった。それは、例えば先の文章がいうように、祈りであり、喜びであるのかも知れない。あるいは平和であり、精神の安らぎであるかもしれない。この作品には、音楽を語りかけてくるその思いに共感することの喜びがある。曲そのものというより、音楽が生成するその場に立ち会うことの快楽がある。

 フリージャズが好きだった。今でも基本的には好きだと思う。けれど、フリージャズをきちんと聞いたのは何年ぶりだろう。よく考えると、私はここ数年フリーという音楽にきちんと向かい合ってはこなかった気がする。今日は、何か自分を、忘れていた自分を取り戻したような気分だ。この文を書き終えたら、もう一度このアルバムを聴いてみよう。そのあと、名作 SPIRITUAL UNITY も聴いてみようか。そしたら、 もう一度、愚かで、凶暴で、ピュアな自分に出会うことができるだろうか。

 追伸。ところで、若き日の私にこのアルバムへの関心をもたせた文章はなんだったか。よく思い出せない。中上健次『破壊せよ、とアイラーはいった』だったろうか。わからない。とおもっていたら、たまたま近くにあって(本当に偶然だ)ぱらぱらめくった古い文庫本に、四方田犬彦「すべてをアイラーからはじめなければならない」(『ジャズ  ベストレコードコレクション』新潮文庫)という文章があった。これだ……、この文章だ。一読してみる。20年前の自分の青臭い精神構造がよみがえるようだ。

 しかし、四方田犬彦も若かったですね。今となっては、ちょっと、赤面する文章だ。


ニューヨーク・トリオのラブ・ユー・マッドリー

2006年07月16日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 5●

NEWYORK TRIO      

LOVE YOU MADLY

                          Scan10001_1    

 3連休だというのに仕事だ。といっても普段より時間の余裕はあるが……。昨日は疲れてはやく寝てしまってら、今朝(つまり今だ)は3:00に起きてしまった。外はまだ暗い。仕方がないから仕事をすることにしたが、その前にビール(prime time)を飲みながら音楽を聴こうと思った。ビールはその日によってグラスをかえて飲むとうまい(ような気がする)。今日は数年前にキリンビールの懸賞であたったウェッジウッドの素焼きのグラスだ。なかなかいい。

 朝方仕事をする時よく聴くCDがいくつかあるが、このNEWYORK TRIOのエリントン曲集もその一つだ。なんといっても、①Star Crossed Lovers がいい。なんという繊細なロマンチシズム。なんという美しい旋律だ。もうすでにこの曲だけ3回も繰り返し聴いている。Star Crossed Loversといえば、村上春樹『国境の南、太陽の西』の中にも重要な音楽として登場する。

 NEWYORK TRIOはいいバンドだ。ビル・チャーラップ(p)、ジェイ・レオンハート(b)、ビル・スチアート(ds)と現代の若手の名手ぞろいだ。ビル・チャーラップはやはりうまい人なのだろう。スウィングしてもよし、バーラドプレイもよしだ。でもちょつと器用すぎはしないか。彼にはもっとブルースを聞かせて欲しい、本当は私はそう思っている。

 そういえば、しばらくぶりにピアノトリオを聴いた。たまに聴くピアノトリオは本当にいい。そういっている間に、CDは終わり、外は明るくなってきた。朝日だろうか、窓の外が真っ赤に燃えている。天窓をあけたら、冷たく新鮮な空気が入ってきた。

 さあ、もう仕事だ。


雨を見たかい?

2006年07月15日 | エッセイ

 今日、用事があって車を運転していて、たまたまあった古いカセットテープをカーステレオに挿入したところ、流れてきたのは、なんとCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)のwho'll stop the rain ? だった。なつかしくてききいってしまった。しばらく聞いていると、同じCCRのHave You Ever Seen The Rain ? がはじまった。今となっては、ちょっとドン臭いサウンドだが、悪い曲ではない。私は同時代にこれらの曲に触れたわけではない。私がこれらを知ったのは、それから10年近くたった70年代末~80年代初頭にかけてだ。けれども、それでもまだ10年前の時代のなごりや燃えカスのような気分は残っていたように思う。(だからどうということはないが……)

 《雨》……。そういえばこの頃の時代の曲には 《雨》の語がよく出てくる。ボブ・ディランは「激しい雨が降る」と歌い、ジェームス・テーラーも「ファイヤー・アンド・レイン」を歌っていた。よく言われることだが、この雨はベトナム戦争が背景となっているのだろう。すなわち、それはベトナムで降るスコールの雨であり、爆弾の雨である。それは、ある場合には反戦の歌であり、ある場合には大儀の薄い戦争をベドコンの恐怖にさらされながら戦わねばならない兵士たちの歌である。またあるいは、当時燃え盛っていた学生運動に対する機動隊の放水の雨なのかも知れない。

 くわしく調べたことはないが、日本の音楽にもこの時代のものには《雨》の語が多いような気がする。《雨》は意外と、60年代から70年代初頭の時代の気分を表す語なのかもしれない。


ジェリー・マリガンのファット・イズ・ゼア・トゥ・セイ

2006年07月14日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 4●

Gerry Mulligan      

What Is There To Say ?

Scan10011

 夜も深まった頃、ゆっくりとバーボンの(ウイスキーでもいい)氷を溶かしながら、戦い疲れた傷を癒すために聞く。これがこのアルバムの正しい聞き方だろう。バリトンサックスは不思議な楽器だ。闇のずっと奥のほうから、やさしく立ち上がってくる、そんな音だ。

 印象に残るのは、やはり①What Is There To Say ?だ。冒頭のこの曲こそが、アルバム全体のトーンを決している。

 Gerry Mulliganについては、名盤『Night Lights』をずっと聞いていた。いい作品だ。1958~59年録音の本作What Is There To Say ?をしったのは、和田誠・村上春樹『Portrait In Jazz』(新潮文庫)によってである。同書の中で村上春樹はこういっている。

 「アート・ファーマーのソフトなトランペットと、ジェリー・マリガンの深い夜のように優しいバリトン・サックスのサウンドが、僕らを魂のくぼみのような場所に運んでゆく。傷ついた魂だけがありかを知る、その密やかな場所に。」

 至言だ。

 (村上春樹の音楽についての文章は、多くの場合、その小説以上におもしろい)


マデリン・ペルーのケアレス・ラブ

2006年07月13日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 3●

Madeleine Peyroux      careless love

Scan10010

 マデリン・ペルー。最近聞いた女性シンガーの中ではピカ一だ。なんというか、翳りを感じるフィーリングがとても良い。アメリカ生まれだが、母親とともにフランスに移住。15歳で家をでてパリの街角で歌い、ついでバンドに加わりヨーロッパ各地を旅して歌ったという放浪の歌手だ。声量があるわけでも、テクニック的にすごいというわけでもないが、なんともいえない陰影のある歌い方をする。『Swing journal』2005.4月号は、「ビリー・ホリデイがシャンソンを歌ったらどうなるか。エデット・ピアフがジャズを歌ったらどんな風になるか---という興味に対する確かな答えがある」などとわけのわからぬ大絶賛をした(脱帽マークだった)。わたしは『Swing journal』誌のようには全然思わないが、まったくちがう意味において絶賛したい。

 ⑤between the barsがとても気に入っている。シンプルで暗い曲だが何か人生の悲しみを思わせる曲である。今、たまたま⑤が流れている。後ろで控えめに聞こえるオルガンの響きがたまらない。どうしようもない人生の悲しみを考えさせられてしまう。ああまずい、涙が出てきそうだ。

 8年前に発表した前作dreamlandもなかなか評判がよく、購入してみたが、私としては断然このcareless loveがお勧めである。先ほどの『Swing journal』誌ではないが、彼女に是非シャンソンの名曲を歌わせてみたい。『これからの人生』とか……。

 たまにではあるが、こういう歌手がでてくるからジャズ聞きはやめられない。


イ・ジュンシクのイン・ニューヨーク

2006年07月13日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 2●

Lee Jung Sik         In New York

Scan10009

 しばらくぶりに取り出して聞きました。なかなかいい。僕は好きです。韓国のSAXプレーヤー Lee Jung Sikの作品。数年前、仙台の「新星堂」ジャズフロアーでお勧め版として宣伝していたので、信じて買いました。よく見ると、パーソネルも

   Lee Jung Sik (ss,ts)

      Ron carter(b)

       Kenny Barron(p)

       Lewis Nash(ds)   

       Hino Terumasa(tp)

と、有名どころです。気負いのない、ストレートな演奏、溢れ出る歌心、繊細な表現。こういうのがいいんだよね。買ってよかった。以来、時々ターンテーブル(トレイ)にのるようになりました。いろいろ難しくなったジャズの世界だけれど、たまにはこういう作品を聞いて原点に返りたい。そういう意味では韓国ドラマの流行と通じるものがあるのかもしれない。

 ちょっと、私の感覚とはちがうんだなあという解釈の演奏もあるのだけれど、全体的な印象はGood。気に入っているのは、④My One And Only Love そもそも原曲が好きなのだけれど、はれものに触るように吹く繊細なSaxに感じてしまう。John coltrane & johnny hartmanの演奏にはちょっと及ばないけれど、十分お勧めできる聞く価値のある一枚だと思います。

 今日は帰りが遅かったのですが、疲れた体を癒し、自分を取り戻すのに十分に貢献してくれました。

                                              平泉澄


ジョアン・ジルベルトの声とギター

2006年07月11日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 1●

Joao Gilberto  ジョアン・ジルベルト

Joao voz e violao  ジョアン 声とギター

Scan10008

 春は曙、夏はボサノヴァ。夏が近づくとボサノヴァを聞きたくなるのはなぜだろう。メロディーとともにさわやかな風が吹いてくるような、そんな感覚を覚える。というわけで、私は毎年夏が近づくと何枚かのボサノヴァアルバムを買い込んで備えるのです。今日の一枚はつい最近購入したもの。こんなアルバムが出ていたなんてなぜもっと早く気づかなかったのだろう。

 ブラジルの至宝ジョアン・ジルベルトの2000年発表作だ。『声とギター』というタイトルがいいじゃないか。タイトル通り声とギターだけで綴られるソロアルバムだ。録音の関係なのだろうか、耳元でささやかれるようなジョアンの声にググッときてしまう。ジョアンの同じような系統の作品に名作『彼女はカリオカ』があるが、こちらもクグッとくる。

 「これよりいいものといったら沈黙しかない。そして沈黙をも凌駕するのはジョアンだけだ。」とはカエターノ・ヴェローゾの言だが、それは大げさではない。ジョアン・ジルベルトを知ったのはもちろん『Getz / Gilberto』だが、ジョアンのソロもなかなかいいものだ。(ただ、全10曲で30分13秒というのは、CD時代の作品としてはちょっと短すぎか)

 今朝、早起きして仕事をしながら聞いていたら、あんまり気持ちよくて仕事に行くのが嫌になってしましました。そんなわけで、このアルバムは朝聞くにはお勧めできません。


大西順子は凄かった!

2006年07月09日 | 音楽

Scan10006 20060708_1929_001 20060708_1929_000_1

 大西順子を含むユニットのライブに行ってきました。峰厚介(s)、大西順子(p)、米木康志(b)、原大力(ds)というメンバー構成です。

 数年前から事実上引退的な状態だった大西順子が活動を再開したという話は聞いていましたが、まさか私の住む街の小さなジャズ喫茶で(しかも5000円という値段で)大西を聞けるとは思っていませんでした。会場は小さく、40~50人入るかどうかという規模でした。その会場で、私はわずか2メートル前で大西がピアノをたたくのを目撃したのです。

 事実上の引退の直前、フリー色を強めた大西でしたが、ここでもその傾向は継承されていました。ソロはもちろんですが、オブリガートやバッキンク゜での不協和音の使い方などオリジナリティー溢れる演奏でした。超絶技巧とはこのことをいうのでしょうね。ものすごいスピードでピアノをたたき続ける大西を、2メートルの距離で目撃したのです。前半最後の「ウンポコロコ」を聞き終わった時、オーディンスは絶句、凄すぎるの一言でした。ピアノという楽器は、弾くものではなく、まさにたたくもの、打楽器なのだということを身をもって感じさせられる演奏でした。 

 大西順子は凄かった。これからの大西順子に注目したい。

 余談だが、大西順子はかわいかった。時折微笑む時のエクボが素敵たった。実力のあるミュージシャンをこんな風にいうのは不遜だろうが、本当にチャーミングな女性だったのだから仕方ない。ちょっとエッチな視線だが、ピアノに座るお尻のラインがなんともいえなかった。


ホテル・カリフォルニア

2006年07月02日 | ノスタルジー

 Scan10003

 実家の倉庫から発見されたシングルレコード群の中になんとあの「ホテル・カリフォルニア」があった。それもシングルですよ、シングル。すごいですねー。LPもあったのですがね。きっと最初はシングル版で聞いていたのでしょうね。

 早速聞いてみたのだが、あまりの感激にことばを失ってしまった。70年代ロックの名曲・名盤である。このような作品のために、「名曲」ということばは用意されているのですね。周知のように、「ホテル・カリフォルニア」はアメリカンドリームあるいはカリフォルニア幻想の崩壊と終焉をテーマにした作品だ。メランコリックな曲想。歌詞の構成のみごとさ。イントロの十二弦ギターの響き。静かだがしっかりと全体を支えるレゲエのビート。絶妙のタイミングで入ってくるギターのオブリガード。そしてなんといっても、最後のドン・フェルダーとジョー・ウォルシュによるツインギターのハーモニー。

 数年ぶりに聞いたのだが、感激した。こういう作品を聞いてに大人になることができたわれわれの世代はほんとうに幸せだ。ギター少年たちは必死にコピーし、ラジオ局は延々と流し続け、キャバレーのお姉ちゃんたちも口ずさんだといわれる大ヒット作である。結局、イーグルスは、この作品を超えるものを創らねばならないというプレッシャーに苛まれ、メンバーは少女淫行事件を引き起こし、3年ちかくかかって新作『ロングラン』を発表するもすぐに解散してしまうのであるが……(そういう意味では、イーグルスを解散させた作品であるともいえる)。

 それにしても、さっき聞いてレコードの音のいいことに感激した。試しにCDと聞き比べてみたのだが、全然ちがう。音の生々しさや響きの深さが全然ちがうのだ。70年代のあの時の音がぱあっと広がってきた感じがした。(CDの音は確かにクリアできれいなのだが、何かが足りない)

 LPレコードもあるはずなので、探して聞いてみたい。今週は忙しいので来週になるだろうが……。「ニューキッド・タウン」をアナログで聞くのが楽しみである。