親父が2015年に逝って、昨年、親父の三回忌を無事終えて、それから半年ちょっとで摂ちゃんは親父のもとに行ってしまいました。
親父が死んだ後、このブログで公開した親父の日記を読めば、親父がどれほど摂ちゃんを可愛がっていたかわかる。
孫たちの小学校と中学校の入学式を見届けて、たぶん、親父の心残りは摂ちゃんだけだったんだと思う。
私は、親父に、
「親父が死んだら、俺が親父に代わって摂子の面倒を見るよ。死ぬまで。」
と約束した(摂ちゃんのこと(10))。
でも、どうやら親父は今一つ私のことが信じられなかったようだ。
天国で、
「利文のやつ、ちゃんとやってけるのか? 大丈夫なのか? 摂子に寂しい思いをさせたりしてないか?」
とハラハラしながら見ていたのかもしれぬ。
私への不安と摂ちゃんへの愛情が高じて、とうとう摂ちゃんを天国に呼び寄せたのだ、と思うことにした。
悪かったなぁ、親父。死んだ後までハラハラさせて。
だけどなぁ。
親父が死んで、摂ちゃんが逝っちゃうまでの2年7カ月。
毎月、名古屋まで行くのは大変だったけど、俺はこれまでで一番、楽しい最高の時間を摂ちゃんと過ごしたよ。
摂ちゃんは、親父が暮らしていた尾張旭の実家が大好きだった。
昔は親父と、お袋と、私と、摂ちゃんが暮らしていた家だ。
正月や夏休みの「実家帰省」の後、親父が小原寮に摂ちゃんを車で送って行くと、いつまでもいつまでも車から降りようとしなかったという。
小原寮で楽しい一生を過ごしたけど、ほんとはきっと、親父や家族と尾張旭の実家で暮らしたかったんだ。
だから、親父が逝って、空き家になった尾張旭の実家を処分することに決めたとき、摂ちゃんと二人で、ガランとした実家で最後のご飯を食べた。親父は遺影で参加だ。
でも、こんなにすぐに摂ちゃんが逝ってしまうんなら、せめて摂ちゃんが逝くまで実家を売り払わなければよかった、と思う。
そうすれば、葬儀会館じゃなく大好きだった実家に、最後に摂ちゃんを連れて帰ってやれたのに。
私は18歳で故郷を捨てて東京に出てきて以来、最後の最後に親父と仲良く笑って話せるようになるまで、尾張旭の実家に寄り付かなかった。辛い記憶しかない実家と、辛い記憶を私に植え付けた親父とお袋が大嫌いだった。
摂ちゃんとも、18歳以降、まともに会わなかった。
それなのに、摂ちゃんは私のことをちゃんと覚えていた。
誕生日のプレゼントに摂ちゃんが大好きだった黒色のコートを持って面会に行くと、照れくさそうに笑いながらカメラに見せびらかしてくれた。
乳がんが再発して通院するようになると、毎回付き添ってくれていたスタッフのMさん(男性)の話では、いつも病院のロビーで私が現れるのを待ちわびていたという。
小原寮に面会に行ったときは、できる限りドライブに摂ちゃんを連れ出した。
いつも小原寮の敷地の中のベンチに座って、遠い外の世界を見ていた摂ちゃんはドライブが大好きだったから。
小原寮に面会に行ったとき、病院のロビーで会ったとき、車に乗せてあげたとき、私はいつも摂ちゃんと手をつないでいた。
摂ちゃんから遠ざかっていた30年以上の月日を取り戻すためには、それくらいしか思いつかなかった。
だから摂ちゃんとドライブするときはいつも片手運転だった。
今まで俺は摂ちゃんとどう接していいのか分からなかったけど。
心のどこかで摂ちゃんを「障害を持った可哀そうな子」だと憐れみの目で見て、そういう妹を持った自分の運命を呪って、悔しくて悔しくて、親父や摂ちゃんが俺に差し伸べようとしてくれた手を振り払って、「俺は一人でいいんだ」と突っ張って生きようとしたときもあったけど。
そっかぁ。
(※画像は「ブラックジャックによろしく」より引用させていただきました。)
人生の方から人間に対してさまざまな問いを投げかけているのではないかと気づきました。