日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

分水嶺となる和漢朗詠集

2011年10月02日 | 日記
 今回は、やや業界向けの年代記的な話をします。『古今集』(一〇世紀頭)の約百年あとに、『和漢朗詠集』(一一世紀頭)が世に出ます。その約二百年あとに、『千載集』(一二世紀末)、『新古今集』(一三世紀頭)が、さらに約百年あとに、『玉葉集』(一四世紀頭)が出ます。二百年を隔てた『和漢朗詠集』と『千載集』を比べてみると、和歌の位置付けに大きな変化が起こっていることがわかります。一一世紀から一二世紀にかけて、平安時代の後半分にあたるこの時期、和歌において、さらには日本の精神史において、深層流の変化が起こっていました。

 ごく大まかな変化を教科書的に言えば、遣唐使の廃止(九世紀末)ののち、輸入貿易的な知性が回路を断たれ、先端的であった「漢才」が停滞し、陳腐化し、地盤低下してきました。ほぼ百年あとに達成された『枕草子』『源氏物語』は、材料も加工もほぼ国産で、これに匹敵する漢才の達成はありませんでした。宗教界では国際的な留学僧であった空海らと違い、留学経験のない僧侶による、ほぼ国産の浄土信仰が唱え始められます。これら、一一世紀頭に登場した女流文学と浄土信仰を分水嶺として、平安後半は、貴族支配の基盤であった荘園制がぐらつきはじめ、武士階級が台頭し、社会不安が末法思想の流行と歩調をそろえ、やがて平家が権力の頂点に立ち、ついには源氏による武家政権が成立していく時代です。

 『和漢朗詠集』の編者、藤原公任は、和漢の学に通じた知識人で、白楽天を中心とする漢詩のサワリの部分を抜粋し、それに日本人の漢詩や和歌を取り合わせて、読み上げや学習に便利なテキストを作りました。漢詩とその翻訳応用を整理した、名歌のアンソロジーです。輸入文学の1つの到達点、そして最後の達成と言ってよいでしょう。

 和歌には、漢詩を下敷き(サブテキスト)にした翻訳も少なくありませんが、ただし漢詩を下敷きにしながら、用いられているのはその一部で、人事と自然の両面が描かれることの多い漢詩から、和歌に採用されたのはほぼ自然描写になるという、かなり一貫した傾向がありました。たとえば、「雪月花」をキーワードとする美意識、「落花」「流水」などのテーマは漢詩に始まりますが、オリジナルの漢詩(絶句や律詩だけでなく、さらに長いものもある)では、それらは交遊や人事の舞台背景となっていました。それが和歌になると、人事が切り離されて、ピンポイントの自然観照になることが多いのです。人事の有無をめぐる漢詩と和歌の連続と断絶は、二つの文学空間の特徴を浮き彫りにします。

 『和漢朗詠集』、『枕草子』、『源氏物語』、この三つがほぼ同時期の成立であることは、示唆的なことです。前時代の最後の達成と、その次の時代の最初の達成は、しばしばこのように相前後して出現するものです。それ以降、一方は衰退してゆき、他方は勢いを増していきます。「漢才」「洋才」と呼ばれる輸入的知性は、自前の生産力がないため、亜流が続くばかりになるのに対して、自生する精神(「有機的知識人」という表現があります)は、上下に根と枝を広げ、多くの実を結ぶ可能性があります。 和歌では、「題」によって詠むものがあります。それらは、漢詩の翻訳や本歌取りといった、故事や名歌の教養、名所や旧跡の知識に基づくステレオタイプなもので、知的遊戯の要素が強いものです。それに対して、リアルな観察、直観、情動から出てくる一人立ちした和歌を目指そうとしたのが、止観を方法とする俊成の、「歌道と仏道は一つ」とする立場です。よく指摘されるように、『万葉集』に目立つ自然人の直情的な歌が、仏教の極限的な現世拒否の洞察を経て、自然や日常の中に超自然や非日常を二重写しにする方法へと、深まりました。自然人においても、超自然を目指す人間においても、知的遊戯は最も無縁なものでした。知的パフォーマンスが価値の基準となる時代から、仏道と表裏する自然描写の深まりが目指され、精神の集中度、緊張度が問われるようになりました。こうして、知的パフォーマンスで満足しない、土壌から細い根を通して養分を吸収するような、張り詰めた歌が出てくるようになりました。それが俊成、定家を経て、為兼で1つの頂点に達しています。



***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***







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