古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

角刺神社・飯豊天皇陵

2018年10月10日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 2018年10月6日、葛城市歴史博物館を見学したあと、博物館に隣接する角刺(つのさし)神社へ行きました。第22代清寧天皇が崩御したあと、第23代の顕宗天皇が即位するまでの間、一時的に執政者だったとされる飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が宮をおいた角刺宮の跡とされる神社です。したがって、ここの祭神は飯豊青命(飯豊青皇女)とされています。





 飯豊青皇女は天皇不在の期間に執政者だったということから、彼女は天皇であったという説があります。記紀では彼女が天皇であったとしていませんが、その薨去を「崩」と記したり、葬られた墓を「陵」と記しており、天皇と同等の扱いをしています。さらに後世の史書である「扶桑略記」には「飯豊天皇廿四代女帝」とあり、「本朝皇胤紹運録」には「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記され、「先代旧事本紀大成経」には「清貞天皇(せいていてんのう)」の諡号まであり、まさに天皇と記されています。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称して不即位天皇として扱っているとのこと。


日差しが強くて木の葉の影で字が読みにくいですね。

小さな社殿です。




 自分の勉強が神功皇后の時代で止まっているので、この時代のことはまだよく解っていませんが、もしも飯豊青皇女が天皇であったとしたら日本初の女性天皇ということになります。記紀において彼女はなぜ天皇とされなかったのでしょうか。思いつきですが、このように考えるのはどうでしょうか。

 712年に完成した古事記は神代から推古天皇(628年崩御)までの歴史が記述されます。712年に完成したものが、なぜ628年崩御の推古天皇までのことしか記していないのでしょうか。これは古事記が参照したとされる帝紀および旧辞に推古天皇までのことしか書かれていなかったからでしょう。ではなぜ帝紀・旧辞が推古天皇までなのか。それは帝紀・旧辞が、蘇我馬子と聖徳太子が編纂して推古天皇に献上されたとされる天皇記と国記をもとに書かれていたからではないでしょうか。そしてその天皇記・国記において日本初の女性天皇は推古天皇その人でなければならなかったのです。したがって天皇記・国記の時点ですでに飯豊天皇は天皇即位の事実を抹殺されてしまったのです。よって天皇記・国記をもとに作られた帝紀・旧辞、帝紀・旧辞をもとに編纂された古事記においても飯豊天皇は天皇とされなかったのです。日本書紀において天皇でないのも同じ理由です。そのように考えると飯豊青皇女は天皇であったとするのが自然でしょう。


 角刺神社の次に向かったのがその飯豊青皇女(飯豊天皇)の陵墓とされる葛城埴口丘陵。遺跡名は「北花内大塚古墳」で、全長90メートルの前方後円墳です。



「飯豊天皇埴口丘陵」と書いてあり、宮内庁が彼女を天皇としていることがわかります。





管理棟のすぐ裏が周濠となっていて、小さな橋が設けられていて渡ろうと思えば渡れる状況です。



橋を渡って墳丘に登ってみたい衝動に駆られました。


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