古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

川部・高森古墳群(北九州実地踏査ツアー No.23)

2018年01月23日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
宇佐神宮を出て向かった先はいよいよツアーの最終目的地である川部・高森古墳群。大分県宇佐市大字高森字京塚にある古墳群で、宇佐市を南から北に流れる駅館川右岸の台地に位置し、6基の前方後円墳を中心として周辺に約120基の円墳や周溝墓が集積した古墳群である。大分県内では最大、九州全体でも宮崎県の西都原古墳群に次ぐ規模を有する。

例によってまずは隣接する大分県立歴史博物館で見学前の情報収集。あまり期待せずに入ったが古墳群の出土品や埋葬施設の復元など思った以上に良い展示だった。ただ、古墳群に関するものよりも磨崖仏や宇佐八幡など中世から近世にかけての仏教文化に関する展示が充実していた。

古墳群を含む宇佐風土記の丘の全体図。(JAおおいたのサイトより)


博物館の前にあった説明板。


博物館のバルコニーから古墳群をのぞむ。



これらの古墳の被葬者は古墳時代に宇佐地方を支配していた首長、おそらくは宇佐国造家の一族ではないかと考えられ、周囲の古墳や周溝墓はその一族や臣下の墓と推測されている。3世紀から6世紀の間に同じ地域に継続して古墳が築造されていることから、長期にわたって安定した支配が行われていたことがうかがわれる。

この中で最も注目されるのが上図の右上にある赤塚古墳。全長57・5メートル、高さ約5メートルで、大きさはさほどではないが、築造は邪馬台国の時代と重なる3世紀末と考えられ、九州で最も古い時期のものだ。調査の結果、中国製の鏡のほかに管玉、鉄刀、鉄斧や土器片を伴っていることが分かった。鏡のうち四面の三角縁神獣鏡が京都府の椿井大塚山古墳などから出土した銅鏡と同じ鋳型で作られたものだったことが判明し、古墳の墳形から極めて初期の前方後円墳であることもわかった。

このことから大和と宇佐の関係を考える必要が出てきた。端的に言うと邪馬台国と宇佐の関係だ。初期の前方後円墳は大和の纏向が発祥と考えられ、その初期前方後円墳が宇佐に造られた。そしてその時期はまさに纏向遺跡が栄えた3世紀末だ。私はこの纏向を邪馬台国と考えているので、宇佐の勢力は邪馬台国とつながっていたと考えるべきなのだろうか。宇佐は神武天皇の狗奴国と同盟関係にあったという仮説は見直すべきなのだろうか。もう少し時間をかけて考えたい。

赤塚古墳。墳丘に登ることができる。



前方部の裾が広がっていないことから初期の墳形だと言える。

赤塚古墳の周囲にある方形周溝墓群。

赤塚古墳の被葬者の近親者の墓であろうか。竪穴石棺であるがその大きさから子供が埋葬されていたのではないかと思われる。


免ヶ平古墳(めんがひらこふん)は、現状は直径30.5メートル、高さ4メートルの円墳の形状をしているが、元来は全長約50メートルの前方後円墳であったと推測される。4世紀、赤塚古墳に続いて築造されたと考えられる。墳丘の周りには空濠が掘られている。後円部中央に安山岩で造られた竪穴式石室には、割竹形木棺が納められ、副葬品として、斜縁二神二獣鏡、三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、鉄剣、鉄槍、斧、刀子などが出土している。また、後円部南寄りに収められた箱式石棺からは、若い女性の人骨、斜縁二神二獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、石釧、刀子などが出土している。




墳丘上にある埋葬施設を保存する設備と思われる。鍵が閉まっていて開けることはできなかった。

博物館にあった免ヶ平古墳の発掘時の写真。

上の大小ふたつの保存施設の下にそれぞれ埋葬主体があることがわかる。

同じく免ヶ平古墳の出土品。


本当は6つの前方後円墳を全部見て回りたかったのだが、時間的に厳しかったのと寒さが一段と厳しくなってきたこともあって、赤塚古墳と免ヶ平古墳の2つだけにして残りはあきらめた。かなり心残りであったが、大分空港までの時間を考えるとやむを得なかった。

以上で3日間の実地踏査ツアーは終了。このあとは大分空港までまっしぐら、というわけには行かず、途中で道を間違えて少し無駄な時間を費やしてしまったが、それでも飛行機出発の1時間ほど前に到着し、空港で慰労会ができた。3日間で22ケ所を踏査するという、かなりの強行軍となりましたが、そのぶん充実したツアーになったことと思います。岡田さん、佐々木さん、どうもお疲れ様でした。ありがとうございました。

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