古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格保有。

神功皇后(その9 葛城襲津彦の登場)

2019年03月12日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政5年、新羅王が3人の遣いを派遣して朝貢してきた。その際、先に人質として日本に滞在していた微叱許智伐旱(みしこちはっかん)を取り戻そうとして彼に嘘の証言をさせたところ、皇后はあっさりと帰国を許した。そして帰国にあたっては葛城襲津彦を随行させたのだが、対馬まで来たときに新羅の遣いにだまされて人質を逃してしまう失態を犯した。襲津彦は3人の遣いを殺害したあと、そのまま新羅に攻め入って捕虜を連れて帰国、このときに連行された捕虜は桑原、佐糜(さび)、高宮、忍海の四邑に住む漢人の祖先であるという。
 この新羅の人質を帰国させる話は三国史記にも記される。訥祇麻立干(とつぎまりつかん)2年、すなわち西暦418年の記事に「王弟未斯欣(みしきん)、倭国自り逃げ還る」とあって、これに先立つ実聖尼師今(じっせいにしきん)元年、すなわち西暦402年の記事に「倭国と好みを通じ、奈勿王の子、未斯欣を以って質と為す」とある。麻立干、尼師今ともに国王を表す名称で、未斯欣は書紀にある微叱許智伐旱であると考えられている。

 捕虜を住まわせた四邑であるが、桑原は現在の御所市池之内・玉手あたり、佐糜は御所市東佐味・西佐味、高宮は御所市伏見・高天・北窪・南郷の一帯、忍海は葛城市忍海に比定され、いずれも葛城氏の本拠地にあたる。この地域は豪族居館跡とされる大型建物遺構が出土した極楽寺ヒビキ遺跡、須恵器や韓式系土器などの遺物と祭祀で使われた導水施設とみられる遺構が出土した南郷大東遺跡、鉄製品やガラス製品を製作したと考えられる工房跡が出た南郷角田遺跡、大規模倉庫跡が出土した井戸大田台遺跡など5世紀代を中心とした南郷遺跡群と呼ばれる数多くの遺跡が発見されており、先進的な技術者集団の存在を背景とする繁栄が窺える。襲津彦は先進技術をもった集団を連れ帰って自らの本拠地周辺に住まわせて一族の繁栄の基礎を固めたのだ。
 葛城氏については当ブログ第一部「葛城氏の考察」や「葛城氏の盛衰」などで考察した通り、神武東征で功績のあった八咫烏、すなわち鴨氏から分かれた一族で、奈良盆地南西部の葛城地方を拠点に神武王朝を支えて大きな勢力を築き、襲津彦のときに大いに栄えた氏族であると考える。そして葛城氏が繁栄を謳歌できた理由は、前述の技術者集団の存在に加え、本拠地である葛城地方を南進して紀ノ川へ出て、さらに瀬戸内海、関門海峡を経て朝鮮半島へ通じる航路を統率していたことがあげられる。そしてそれができたのはともに武内宿禰を先祖に持つ兄弟氏族である紀氏の力によるところが大きい。なお、南郷遺跡群は5世紀前半から後半にかけての繁栄が想定され、御所市にある全長238mの前方後円墳である室宮山古墳は5世紀初め頃の築造とされている。神功皇后は4世紀後半から5世紀初めにかけて活躍したと考えられることから、葛城氏の繁栄が神功皇后に仕えた襲津彦を起点としていることと整合がとれている。さらに三国史記の402年および418年の記事とも一致する。


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