古代日本国成立の物語

自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格の取得を目指して勉強中。

弥生二丁目遺跡

2018年02月01日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2018年1月のとある休日、所用のため東京大学の近くへ出かけた。なにぶん東大には縁がなかったのでこのあたりに行くのは初めてで、事前に地下鉄の東大前駅から目的地までのルートを確認するためにGoogleMapを見ていて眼に留まったのが「本郷弥生」という交差点。行ったことがないのにこの名前が記憶に残っていた。本郷弥生町。小学校か中学校の歴史で習った有名な地名。ここから発掘された土器がそれまで各地で発掘されていた土器(縄文式土器)と明らかに違ったことから、弥生式土器の名がつけられた。その由来となった町。当然、弥生時代の呼称もこれに基づくのです。
この土器は発掘当時は「本郷弥生町出土壺型土器」と呼ばれ、文化庁が運営する文化遺産オンラインというサイトに掲載されています。ただし、本郷弥生町という町名は当時も今も存在しておらず、当時は「東京府本郷区向ヶ岡弥生町」、現在は「東京都文京区弥生」となっています。

本郷弥生の交差点。


この交差点から歩いて5分のところに建てられた碑。

「弥生式土器発掘ゆかりの地」とある。「ゆかりの地」ってどういうこと。「発掘の地」でええやん。実はこの土器が発掘された正確な場所が今となってはわからなくなったらしい。以下は文京区のサイトから転載。

明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられた。しかし、「弥生式土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなり、推定地として3か所が指摘されていた。 昭和49年(1974)、東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、昭和51年(1976)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。しかし、弥生式土器の発見地は特定するにいたっておらず、現在も調査研究が進められてる。

ゆかりの地の石碑の横にあった説明板。




「弥生二丁目遺跡」は東大浅野キャンパスの構内にある。見学自由とのことだったので人生で初めて東大に足を踏み入れて見てきた。



国の史跡に指定されたことで、ここには建物も建てられず、空き地として放置されている。この裏は急な崖になっていて、遺跡が台地上に形成されたことがわかる。この弥生二丁目遺跡が弥生土器が出土した「向ヶ丘貝塚」の可能性が最も高いらしい。

この道は弥生坂と呼ばれ、遺跡のある台地を下っていく。右側が東大の構内でその中にこの遺跡がある。


台地の下へ回って遺跡を裏から撮影。遺跡が台地上にあることがよくわかる。この大木の足元にさっき見てきた遺跡がある。


この東大構内からは方形周溝墓も発掘されている。



方形周溝墓が出たのはこのあたりか。

とにかくこの浅野キャンパスは弥生遺跡の上にあるということだ。

せっかく東大へ来たのだから赤門を。



古代、とくに弥生時代の集落は概して台地や丘陵地、微高地など周囲よりも少し高いところに設けられている。他のムラからの攻撃に備えるのが第一の目的であろう。周囲が見渡せて見張りやすく、攻撃する側にとっては攻めにくい。そして第二の目的は河川の氾濫による被害を回避することであろう。台風などでひとたび川が氾濫するとムラ全体が流されてしまう。とくに台地上などは水の確保に苦労するはずだが、それでも低地で敵の夜襲や水害におびえながら暮らすよりも、毎日低地を流れる川で水を汲んで集落まで運び上げる苦労のほうがマシ、ということだろう。
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