古代日本国成立の物語

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神功皇后(その4 新羅征討①)

2018年01月28日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功皇后は天日槍の子孫である。その天日槍は書紀によると新羅の王子であるという。新羅の王子の子孫である神功皇后が夫の仲哀天皇に新羅を討たせようとしたことになる。それどころか、仲哀天皇が新羅でなく熊襲を討とうとして崩御したあと、皇后自ら指揮をとって新羅征伐のために半島に渡っている。神功皇后は祖先の祖国と戦って敗北させたことになるのだが、これはどういうことだろうか。それを考えるにあたってまず紀元前後から3~4世紀の中国および朝鮮半島の情勢について確認しておきたい。

 中国では漢が前202年に中国を統一した。その後、前195年にその漢の支配のもとにあった燕から亡命した衛満が朝鮮半島を支配して王として衛氏朝鮮を建国した。しかし前109年に漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、翌年にはその領土であったところに楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の四郡を設けて朝鮮半島を実質的な支配下に置いた。しかしその後、この地方の住民による抵抗が大きくなって秩序が乱れてきたために、漢はこれらの郡を維持することを放棄し、前82年には真番郡と臨屯郡を廃止、さらに前75年には玄菟郡を中国東北地方の遼東郡に吸収することになる。そして中国の勢力が弱まったことを受けて高句麗が勢力を拡大し、前37年の建国に至った。一方、朝鮮半島南部においてはいまだ統一国家の形成には至っていなかったが地域住民による部族連合国家への胎動が始まっていた。

 西暦8年に王莽が漢を倒して新を建国したが、そのわずか15年後の23年、光武帝が新を滅ぼして25年に即位、後漢を建てた。44年になると朝鮮半島南部の国家形成が進展し楽浪郡に朝貢する部族が現れた。そして57年、倭の奴国が後漢から金印を授与されるのである。しかし後漢は朝鮮半島支配にさほど関心を示さず、むしろ遼東郡による高句麗や扶余あるいは北方の匈奴に対する牽制に注力した。その後、2世紀後半になって黄巾の乱や五斗米道の乱など民衆の反乱が相次いだ後漢は衰亡の途をたどり、遼東郡の支配を事実上放棄した。そしてこの隙をついて公孫氏が遼東郡の支配権を確立したのだ。公孫度(こうそんたく)は楽浪郡を復興し、さらにその南方に帯方郡を置いて朝鮮半島南部を支配した。時はあたかも3世紀前半、中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に突入しようとしていた。公孫度あるいは子の公孫淵(えん)は後漢最後の皇帝である献帝から禅譲を受けた魏に忠誠を示しながらも南方の呉と国交を開くなど両属政策をとった。呉が公孫氏と組んで東方から魏を牽制したことは魏にとって大きな脅威であったため、魏は238年に公孫氏を討ち滅ぼした。このとき魏は公孫淵を南方から攻めようとして楽浪・帯方の二郡をおさえたのだ。こうして遼東郡から公孫氏の影響が排除され、朝鮮半島は楽浪郡・帯方郡をおさえた魏の勢力下におかれることになった。その結果、邪馬台国の卑弥呼は魏に対する朝貢を開始し、親魏倭王の称号を下賜されることになるのだが、それが翌年の239年のことである。

 魏志韓伝によると、3世紀の朝鮮半島の状況を「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」とし、韓には馬韓、弁韓、辰韓の三韓勢力が鼎立していること、さらに韓が倭と接していることを記している。さらに同じ魏志の倭人伝は「(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其の北岸の狗邪韓国に到り」とある。朝鮮半島の南端には倭に属する、つまり倭人が居住する狗邪韓国があった。
 265年に魏を滅ぼした晋(西晋)が中国を統一すると馬韓、辰韓地方には晋に朝貢する国が出てきた。この地域における国家形成への胎動と言えよう。そして3世紀末から4世紀にかけて高句麗や鮮卑、匈奴が勢力を増し遼東地域が大きな混乱状態になった結果、313年に楽浪郡が、続いて314年に帯方郡が滅亡することになり、このことが朝鮮半島の国家形成を大きく促進することとなった。

 そして4世紀にはいると三韓それぞれの地域で活発な動きが見られるようになる。まず馬韓地域では少なくとも4世紀前半頃までには馬韓諸国のなかの伯済国が周囲の小国を統合して、漢城(現在のソウル)を中心として百済国を成立させていたと考えられている。百済・新羅・高句麗の歴史が記される「三国史記」は現存する朝鮮半島最古の歴史書であるが、その「百済本紀」には百済の建国が紀元前18年と記される。しかし第13代王である近肖古王より以前の記録は伝説あるいは神話として後世に創作された話であるとされ、この近肖古王が即位した346年を百済建国の年とする考えが定着している。その百済の名が中国の史書に初めて見られるのは「晋書」帝紀威安2年(372年)の近肖古王による東晋への朝貢記事である。その結果、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守の号を授かったとある。この近肖古王は日本書紀では照古王の名で登場する。百済が東晋に朝貢したほぼ同時期に倭との通交も始まり、七支刀(ななつさやのたち)と呼ばれる剣が倭へ贈られたことが日本書紀の神功皇后紀に見える。この刀は石上神宮に現存しており、銘文の分析から369年に作成されたと考えられている。

 次に辰韓地域を見ると、3世紀には12か国が分立している状況にあったのだが、この中の斯蘆(しろ)国が基盤となり、周辺の小国を併せて新羅国へと発展していったと考えられている。斯盧国は280年、281年、286年の3度にわたって西晋に朝貢しているが辰韓諸国を代表しての朝貢であった。そして新羅の名が初めて中国史書に表れるのが377年である。356年に即位した第17代奈勿(なこつ)王が高句麗とともに前秦に朝貢している。三国史記の「新羅本紀」は新羅の建国を前57年とし、辰韓の斯盧国の時代から一貫して新羅の歴史としているが史実性があるのはこの奈勿王以後であり、それ以前の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

 中国では265年に魏を滅ぼし、続いて280年に呉を滅亡へと追いやった西晋が三国時代に終止符を打って中国を100年ぶりに統一した。しかし八王の乱が起こるなど国内が大きく乱れた結果、316年に滅亡する。その後、遺臣が江南へ移って東晋を建てることになるが、中国北部は異民族の武力抗争が続く五胡十六国の時代に入る。そしてこの混乱の中で台頭してきたのが高句麗である。
 高句麗は312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人や他国の亡命者を積極的に登用し、国家形態を整備し軍事力を拡大して東北地方の強国となっていった。しかし、故国原王のときに遼西に建国した燕と激しい攻防を続けた結果、最終的には355年に征東大将軍営州刺史楽浪公高句麗王の称号を与えられて冊封を受けることになる。さらに371年には国力を充実させた百済の近肖古王からの激しい攻撃を受けて王が戦死する危機に面し、国力を低下させてしまう。しかしその20年後の広開土王(391年~412年)のときに高句麗は最盛期を迎える。この広開土王の活躍は没後2年後に建てられた墓碑(好太王碑)に記されるのであるが、当時の三韓地域や倭との攻防が次のように記録されている。「もともと百済・新羅は高句麗に朝貢していた。そこへ倭が海を渡ってやってきて両国を破って従えた。そして百済は高句麗との約束を破って倭と和通したので広開土王は百済を討とうとした。一方の新羅は高句麗に救援を求めてきたので大軍を派遣して倭を退却させようとしたが逆を突かれて新羅の王都を占拠されてしまった。その後、倭が帯方郡に侵入してきたのでこれを討って大敗させた

 この碑文によると、百済は高句麗と対抗するために倭との関係構築を目論んだことがわかる。三国史記の百済本紀においても、397年に百済は倭国に太子を人質として供し、402年には遣使を送り、その翌年に倭国使者の来訪を歓迎した記事が見られる。一方の新羅はその百済や倭への対抗上、高句麗との関係を求めた。新羅本紀によれば、紀元前後からたびたび倭人の侵攻を受けていることがわかる。2世紀には講和の記事も見られるが、3世紀に入ると一転して倭人が一方的に攻撃する状況になる。4世紀になってすぐに倭国による遣使の記事があるが、345年の断交以降はほぼ敵対関係にあったことが窺える。5世紀において倭人、あるいは倭国が新羅に侵入した記録がなんと17回にわたって記されるのだ。ただし、新羅本紀に表れる倭あるいは倭人はとくに3世紀までの記事においては朝鮮半島南端すなわち狗邪韓国に居住する倭人を指す場合もあるので注意を要する。

 最後に弁韓の状況も見ておこう。先に魏志韓伝と魏志倭人伝の記事を合わせて確認したが、両書に矛盾がないとすれば3世紀の朝鮮半島南部は西に馬韓、東に辰韓、その間の南側に弁韓、さらにその南の半島南端に倭人の居住する狗邪韓国があったことになる。魏志韓伝は弁韓が12ケ国に分かれていたことを記し、その中に弁辰狗邪国という国名が見えるが、これは狗邪韓国のことではないだろうか。その後、弁韓地域では3世紀末から4世紀半ば頃、洛東江下流域の伽耶(加羅)が優勢になったとされるが、百済や新羅のように統一国家の形成には至らなかった。この「伽耶(かや)」と「狗邪(くや)」は音が似ていることから、弁辰狗邪国あるいは狗邪韓国が伽耶に発展したとする考えもあり、わたしもそのように考える。また、この地域は任那とも呼ばれ、神功皇后紀以降の日本書紀にも再三登場し、先述の好太王碑文にも「任那加羅」と記されている。魏志倭人伝にある帯方郡から邪馬台国までのルートにおいて朝鮮半島から九州に渡るときの起点になっていることからもわかるように、対馬の対岸にあり、倭人の居住地ということもあって倭はこの伽耶あるいは加羅を足掛かりに朝鮮半島との交易を行ってきた。また、この伽耶の地は古代からの鉄の産地でもあった。魏志韓伝には「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している」とある。

 少し長くなったが神功皇后の新羅征討を考えるにあたって、当時の朝鮮半島の歴史を概観した。



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古代朝鮮 (講談社学術文庫)
井上秀雄
講談社



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