ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

『はなのすきなうし』*わたしの本棚*

2015年07月26日 | Weblog

数年前のことでした。

息子は、悩んでいました。



人と違う自分に。

それを生きる難しさに。





子どもが苦しむことは、母にも同じように苦しいことでした。

しかも、代わることはできません。



ですが、そうではありながら、素晴らしいことだとも感じていました。


必ずいつかは、向き合い、越えていかなければならない壁。

それを越えられた時、息子は真に自分らしく生きていけるようになる、

そんな予感がしていました。






わたしにできたことは、ほんのささやかなことばかりでした。


息子の想いを、いつでも、どんなものでも聴くこと。

どんな姿も受け入れ続けること。

表現したいのにできなくて苦しい時に、筆談をして、時間をかけて引き出すこと。

この困難は、いつかは必ず息子の力になる、と信じていること。






本当に苦しい時、言葉は、それがどんなに想いのこもったものでも、通り過ぎていってしまうように思います。

受け入れ、咀嚼するだけのエネルギーが、とてもとても、持てないからです。

北風のように感じられるかもしれません。



言葉は、その人が困難を越えようと歩き始めた時に、役に立てるかもしれません。

その人に必要なだけの時間をかけてから、歩き出す、その時に。



それを見極めるのは、なかなか難しいのですが、

その人を愛する人ならば、わかるものなのですよね。





“今かしら”と思った時、わたしは、息子に本を贈りました。

何冊か、贈りました。


『はなのすきなうし』は、そのうちのひとつです。





スペインに生まれた、ある牛の物語です。

*****************


ふぇるじなんど という名前の牛がいました。

ほかの牛たちは、たいへん活発に動き回っていましたが、ふぇるじなんど は違いました。

木陰に座り、花のにおいをかいでいることが大好きだったのです。

それも、一日中。



ふぇるじなんど のお母さんは、心配になりました。

「どうして、おまえは ほかのこどもたちといっしょに、とんだりはねたりして あそばないの?」


ふぇるじなんど は、頭をふって、こたえました。

「ぼくは こうしてひとり、はなのにおいを かいでいるほうが すきなんです。」



お母さんには、ふぇるじなんど が淋しくないことが、よくわかりました。

もののわかったお母さんでしたから、ふぇるじなんど を好きなようにさせておいてあげることにしたのです。




ふぇるじなんど も牛。

どんどん大きな体になっていきます。

他の牛たちは、荒っぽくなり、闘いの練習をするようになります。

一番強い牛になりたいのです。


でも、ふぇるじなんど だけは、やはり、花のにおいをかいでいるのが好きでした。




ある日、人間の男たちがやってきて、一番大きくて乱暴な牛を探しに来ました。

闘牛にするのです。


牛たちは、みな、自分が一番強いことを見せたくて、猛烈に暴れまわります。

ふぇるじなんど は、木陰に座り、花のにおいをかいでいるだけ。

ふぇるじなんど にとっては、どうでもいいことでしたから。



ところが、ふぇるじなんど が座ったところには、クマンバチがいたのです。

クマンバチは怒って、ふぇるじなんどをいやというほど刺しました。


ふぇるじなんど は、びっくりして、うなり、気違いのように大暴れしました。

これをみた男たちは、大喜び。

これこそ、探していた牛だ!


ふぇるじなんど は、マドリードに連れていかれました。




いよいよ大闘牛の日。

大きな大きなふぇるじなんどの登場に、会場は沸き、闘牛士たちはおののきます。


さあ、闘いのはじまりです。



でも、ふぇるじなんどは、会場の真ん中に座り込みました。

そして、見物人の女の人たちが帽子に載せている花のにおいを、うっとりと、かぎはじめたのです。

闘牛士たちがどんなにけしかけても、ふぇるじなんど は、まったく動きません。



当然、ふぇるじなんどは、ふるさとの牧場に連れ戻されました。


ふぇるじなんどは、再び、大好きな木陰に座り、静かに、花のにおいをかいで暮らしたのです。


物語は、こう終わっています。


「ふぇるじなんど は 、とてもしあわせでした。」



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わたしは、何も言わずに、この本を渡しました。


読んだ息子も、何も言いませんでした。



ただ、読み終えてから、本を閉じて、

小さく、頷きました。















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