民主党の長島昭久衆議院議員が、国家基本問題研究所の「目を覚ませ、民主党!」と題した短い文章を寄稿した。私は国基研の会員なので、会のウェブサイトは時折見ているが、民主党議員の寄稿などなかなか珍しい。文章の結びの章で、長島氏は、民主党の現状を痛烈に批判している。
●「何でも反対」の万年野党体質
それ(下野)から2年半が経過しようとしている今日、民主党を「改革政党」と見なす国民はほとんどいまい。改革路線は維新の党にすっかりお株を奪われ、労組など組織出身の議員が大半を占める参議院と衆議院の議員数がほぼ同じとなり、党内論議はかつての自由闊達さとは程遠い、民意から懸け離れた組織防衛の論理が跋扈(ばっこ)する低劣なものとなってしまった。
特に安保法制を巡る国会審議では、私たちが標榜した「保守二大政党」とは似ても似つかぬ万年野党の「何でも反対」路線がますます先鋭化している。
現状のままでは、政権奪還は夢のまた夢であろう。もはや解党的出直ししか道はない。第一に、労組依存体質から脱却しなければ改革に背を向けた勢力との批判を払拭できない。第二に、社会保障に偏った「大きな政府」路線を見直し、アベノミクスに代わる経済政策と地方再生戦略を打ち出さねばなるまい。第三に、「政争は水際まで」と腹を決めて、一刻も早く、政権交代前のような現実的な外交・安全保障政策に回帰することだ。目を覚ませ、民主党! さもなくば、消えゆくのみ。
申し訳ないが、長島氏は不可能を要求している。氏が民主党に希望を抱いて入党したのが平成12年、初当選は平成15年だが、その当時、民主党が「保守二大政党」を標榜していたなら、氏も騙されたクチだろう。入党時の党代表はあのルーピーであり、とてもじゃないが保守とは言い難い。初当選の年には小沢一郎が民主党に合流している。長嶋氏も大いなる計算違いをしたようだ。
ともあれ、長島氏の指摘は部分的には正しい。「万年野党の「何でも反対」路線がますます先鋭化している」という点については、まさしく民主党の今を的確に表現したものだ。「何でも反対野党」は、以前は旧社会党、共産党の看板だった。だから、反政府勢力からは一定の評価を得るものの、誰もそれらの政党に政権を預けることなど、想像すらしなかった。民主党が突き進む路線は、まさに「何でも反対」である。そして、反対のためなら暴力を行使するという、数十年前の学生運動さながらの左翼らしさが浮き出て、馬脚を現した。

保守派からの評判は芳しくない橋下徹氏だが、松井一郎大阪府知事を含め、彼等の民主党に関する物言いも正鵠を得ている。橋下氏は「民主党という政党は日本の国にとってよくない。なぜなら政党の方向性が全く見えない」とこき下ろし、松井氏は「反対のための反対の、民主党がやっているようなばかな国会運営には参加しない」と三行半だ。単なる野合を目指す松野“名ばかり”代表を牽制した発言とも取れるが、腐ったミカンに擦り寄れば自らも腐ることを前提にした「距離感」を定義する発言とも言えるはずだ。
長嶋氏の「不可能の要求」とは、氏が指摘している民主党の出直し路線が、ほぼ全て不可能としか思えないからである。彼は先ず「労組依存体質から脱却」を提言したが、もともと選挙互助会である民主党にとって、最大の支援団体と手を切ることは互助会としての機能を否定することになるので、不可能である。そして、「アベノミクスに代わる経済政策と地方再生戦略」だが、もともと詐欺的なマニフェストで国民を裏切った民主党が、政策提言をしたところで、もう誰も信用しない。三つ目の「現実的な外交・安全保障政策への回帰」だが、それを提言する議員がもしいたなら、民間人である森本敏氏を防衛相に登用したりはしなかっただろう。
「民主党は消えゆくのみ」という危惧を持つ長島氏自身が、自分の三つの要求が民主党にとってどれほどハードルの高いものか、十分分かっているはずだ。そして、長島氏が敢えて要求に含めなかった、最も重要かつ根源的な政党要件 ―― 即ち、憲法に対する党のスタンスひとつ纏められない政党に、政権交代可能な政党としての国民の支持など集まろう筈もない。
民主党は、まさしく「消えゆくのみ」である。
ブログ「私的憂国の書」より引用
●「何でも反対」の万年野党体質
それ(下野)から2年半が経過しようとしている今日、民主党を「改革政党」と見なす国民はほとんどいまい。改革路線は維新の党にすっかりお株を奪われ、労組など組織出身の議員が大半を占める参議院と衆議院の議員数がほぼ同じとなり、党内論議はかつての自由闊達さとは程遠い、民意から懸け離れた組織防衛の論理が跋扈(ばっこ)する低劣なものとなってしまった。
特に安保法制を巡る国会審議では、私たちが標榜した「保守二大政党」とは似ても似つかぬ万年野党の「何でも反対」路線がますます先鋭化している。
現状のままでは、政権奪還は夢のまた夢であろう。もはや解党的出直ししか道はない。第一に、労組依存体質から脱却しなければ改革に背を向けた勢力との批判を払拭できない。第二に、社会保障に偏った「大きな政府」路線を見直し、アベノミクスに代わる経済政策と地方再生戦略を打ち出さねばなるまい。第三に、「政争は水際まで」と腹を決めて、一刻も早く、政権交代前のような現実的な外交・安全保障政策に回帰することだ。目を覚ませ、民主党! さもなくば、消えゆくのみ。
申し訳ないが、長島氏は不可能を要求している。氏が民主党に希望を抱いて入党したのが平成12年、初当選は平成15年だが、その当時、民主党が「保守二大政党」を標榜していたなら、氏も騙されたクチだろう。入党時の党代表はあのルーピーであり、とてもじゃないが保守とは言い難い。初当選の年には小沢一郎が民主党に合流している。長嶋氏も大いなる計算違いをしたようだ。
ともあれ、長島氏の指摘は部分的には正しい。「万年野党の「何でも反対」路線がますます先鋭化している」という点については、まさしく民主党の今を的確に表現したものだ。「何でも反対野党」は、以前は旧社会党、共産党の看板だった。だから、反政府勢力からは一定の評価を得るものの、誰もそれらの政党に政権を預けることなど、想像すらしなかった。民主党が突き進む路線は、まさに「何でも反対」である。そして、反対のためなら暴力を行使するという、数十年前の学生運動さながらの左翼らしさが浮き出て、馬脚を現した。

保守派からの評判は芳しくない橋下徹氏だが、松井一郎大阪府知事を含め、彼等の民主党に関する物言いも正鵠を得ている。橋下氏は「民主党という政党は日本の国にとってよくない。なぜなら政党の方向性が全く見えない」とこき下ろし、松井氏は「反対のための反対の、民主党がやっているようなばかな国会運営には参加しない」と三行半だ。単なる野合を目指す松野“名ばかり”代表を牽制した発言とも取れるが、腐ったミカンに擦り寄れば自らも腐ることを前提にした「距離感」を定義する発言とも言えるはずだ。
長嶋氏の「不可能の要求」とは、氏が指摘している民主党の出直し路線が、ほぼ全て不可能としか思えないからである。彼は先ず「労組依存体質から脱却」を提言したが、もともと選挙互助会である民主党にとって、最大の支援団体と手を切ることは互助会としての機能を否定することになるので、不可能である。そして、「アベノミクスに代わる経済政策と地方再生戦略」だが、もともと詐欺的なマニフェストで国民を裏切った民主党が、政策提言をしたところで、もう誰も信用しない。三つ目の「現実的な外交・安全保障政策への回帰」だが、それを提言する議員がもしいたなら、民間人である森本敏氏を防衛相に登用したりはしなかっただろう。
「民主党は消えゆくのみ」という危惧を持つ長島氏自身が、自分の三つの要求が民主党にとってどれほどハードルの高いものか、十分分かっているはずだ。そして、長島氏が敢えて要求に含めなかった、最も重要かつ根源的な政党要件 ―― 即ち、憲法に対する党のスタンスひとつ纏められない政党に、政権交代可能な政党としての国民の支持など集まろう筈もない。
民主党は、まさしく「消えゆくのみ」である。
ブログ「私的憂国の書」より引用
憲法を守りさえすれば平和が保たれると考える護憲派は、憲法を「唱えれば願いがかなう魔法の言葉」だと思い込んでいるようだ。だから改憲=壊憲、改正は平和をも壊すのだ、とまるで改憲がお札を破く罰あたり、禁忌に触れる行為であるかのように言う。
一方、改憲派も、憲法を変えさえすれば、強く自立した日本になると考える向きが多い。憲法を「敗戦国日本に掛けられた呪い」だと思い込んでいる。憲法改正で、立ちどころに日本は復活し、自衛隊は世界最強の軍隊となるかのようにとらえている。
もはや呪術的世界。憲法の文言の暗示が「効き」過ぎている点で、どちらも同じ穴のムジナになりかねない。
多くの国民にとって「九条で平和、改憲=壊憲論」「日本が最強になるために! 憲法改正(破棄)論」の二択しかないように見えてしまうのは少々きつい。
そもそも憲法について熱心に勉強し、「変えるべきか、守るべきか」を判断している人はそれほど多くはないだろう。有権者の大半は「変えた方がよければ変えればいいし、変えない方がよければ変えなくていい」と言ったところだと思う。そこへきてこのような呪術的な話をされても「乗れない」のが本音だろう。
九条が変わらないうちから日本には実質的な軍隊が組織され、仮に護憲派であってもさすがに「自衛隊をなくせ」とまでは言わなくなった(自衛隊は災害救助隊にすべしという人が今もいないではないが)。である以上、憲法と自衛隊の存在の齟齬は理解しているだろう。
憲法を大事にする側の護憲派が、その中でも最も大事な九条が現実と齟齬をきたしている状態を放置して、なぜ平気なのだろうか。このままでは憲法は文字通り「空文化」するだろう。自衛隊に「歯止め」とやらをかけたいのであれば、なおのこときちんと憲法に明記したほうがいい。
(ただし、「自衛隊を縛っておかないと、政府ともども暴走する!」という人たちが、にもかかわらずお隣りの中国・北朝鮮という非民主主義国家の暴走を「恐れない」のは問題である。中朝よりも日本の暴走を怖れているのだ。不思議なことだ。
中国は既に南シナ海を侵攻しているし(「進出」ではない。言い換えはやめよう)、第三者的に見ても、日本より中朝の方が暴発・侵略・隣国攻撃の危険性は高い。にもかかわらず「中朝より日本が怖い!」のが「平和を愛する中国・北朝鮮の公正と信義に信頼して」いるせいだとすると、憲法前文はやはり魔法の言葉で、護憲派は催眠術レベルの暗示にかかっているということになってしまうのだが……)
「解釈改憲を許すな」というなら、その余地がないように現実に沿った憲法に改め、憲法の枠によって自衛隊を定義すべきだ。
私は改憲派だが、その最も大きな理由は、九条は自衛隊が存在しているという現状と合っていないと考えるからだ。しかも自衛隊をなくすべきだという意見には現実味がないことから、現状と憲法を一致させた方がいい、ということに尽きる。それをしてこなかったから、解釈の「余地」が広がる一方となり、憲法への信頼が損なわれているのだ。
何より、自衛官の立場を考えてほしい。「自分の職業が憲法違反かもしれない」状況で命を賭けろというのは酷な話だ。安保議論が持ち上がるたびに「違憲か合憲か」と毎度毎度話が振り出しに戻る。
朝日などは「どうせ憲法改正なんて出来やしない」とタカをくくって、「安保法制を通したいなら改憲が先だ」「でも憲法は経典だから変えてはならない」(キリッ)と開き直っている。自分たちの主張が如何に憲法を毀損しているかも気付かずに……。
「憲法変えるのは絶対嫌、米追従も嫌、でも国連任務に参加しないひきこもり日本も嫌!」といった護憲派のわがままぶりは、改憲派だけではない多くの国民を白けさせていることだろう。
広く一般に改憲議論を起こす必要があるが、その際、改憲派が気をつけなければならない点がある。
改憲派がよく指摘する憲法の成立過程や前文の他力本願ぶりは確かに重大な問題だが、憲法に特段のこだわりがない人からすると「今まで平気だったんだからこれからも平気だろう」と考える人が大半だろう。なにせ、「押し付けだ」と言いながら既に七十年近く使って来ているのである。
また、行きすぎもある。憲法成立の事情をそれほど知らない国民に対して一足飛びに「大日本帝国憲法に戻すべきだ!」「憲法破棄!」と言えば、それが改憲派の「筋」だとしても、よほどていねいな説明を前提としなければ、誤解を受けかねない。
「ちょっと変えるくらいなら仕方ないと思うんだけど、気を許すと破棄だとか、帝国憲法万歳だとか言い出すから、危なくておちおち改憲に賛成できない」と言われてしまい、改憲さえもどんどん遠のくことになる。これでは護憲派の思うツボだ。まずは何を置いても九条を何とかするのが先だ。
「憲法は確かにワケありの出自ではあるけれど、それでも七十年間使って来た。これからは憲法を国民の手で育てていく必要がある。憲法を尊重しつつ、現状に合うように綻びを繕ってこれからも使い続けよう」
改憲・護憲の骨がらみの議論にとらわれず、議論の入り口でフラットに考えてみると、これがそんなに難しいことだとは思えない。憲法を改正できれば、改憲派は実を取れるし、護憲派も戦後憲法を今後も使い続けられる。
改憲と、憲法の尊重は矛盾しない。
言論プラットフォーム「アゴラ」梶井彩子氏の記事より引用
一方、改憲派も、憲法を変えさえすれば、強く自立した日本になると考える向きが多い。憲法を「敗戦国日本に掛けられた呪い」だと思い込んでいる。憲法改正で、立ちどころに日本は復活し、自衛隊は世界最強の軍隊となるかのようにとらえている。
もはや呪術的世界。憲法の文言の暗示が「効き」過ぎている点で、どちらも同じ穴のムジナになりかねない。
多くの国民にとって「九条で平和、改憲=壊憲論」「日本が最強になるために! 憲法改正(破棄)論」の二択しかないように見えてしまうのは少々きつい。
そもそも憲法について熱心に勉強し、「変えるべきか、守るべきか」を判断している人はそれほど多くはないだろう。有権者の大半は「変えた方がよければ変えればいいし、変えない方がよければ変えなくていい」と言ったところだと思う。そこへきてこのような呪術的な話をされても「乗れない」のが本音だろう。
九条が変わらないうちから日本には実質的な軍隊が組織され、仮に護憲派であってもさすがに「自衛隊をなくせ」とまでは言わなくなった(自衛隊は災害救助隊にすべしという人が今もいないではないが)。である以上、憲法と自衛隊の存在の齟齬は理解しているだろう。
憲法を大事にする側の護憲派が、その中でも最も大事な九条が現実と齟齬をきたしている状態を放置して、なぜ平気なのだろうか。このままでは憲法は文字通り「空文化」するだろう。自衛隊に「歯止め」とやらをかけたいのであれば、なおのこときちんと憲法に明記したほうがいい。
(ただし、「自衛隊を縛っておかないと、政府ともども暴走する!」という人たちが、にもかかわらずお隣りの中国・北朝鮮という非民主主義国家の暴走を「恐れない」のは問題である。中朝よりも日本の暴走を怖れているのだ。不思議なことだ。
中国は既に南シナ海を侵攻しているし(「進出」ではない。言い換えはやめよう)、第三者的に見ても、日本より中朝の方が暴発・侵略・隣国攻撃の危険性は高い。にもかかわらず「中朝より日本が怖い!」のが「平和を愛する中国・北朝鮮の公正と信義に信頼して」いるせいだとすると、憲法前文はやはり魔法の言葉で、護憲派は催眠術レベルの暗示にかかっているということになってしまうのだが……)
「解釈改憲を許すな」というなら、その余地がないように現実に沿った憲法に改め、憲法の枠によって自衛隊を定義すべきだ。
私は改憲派だが、その最も大きな理由は、九条は自衛隊が存在しているという現状と合っていないと考えるからだ。しかも自衛隊をなくすべきだという意見には現実味がないことから、現状と憲法を一致させた方がいい、ということに尽きる。それをしてこなかったから、解釈の「余地」が広がる一方となり、憲法への信頼が損なわれているのだ。
何より、自衛官の立場を考えてほしい。「自分の職業が憲法違反かもしれない」状況で命を賭けろというのは酷な話だ。安保議論が持ち上がるたびに「違憲か合憲か」と毎度毎度話が振り出しに戻る。
朝日などは「どうせ憲法改正なんて出来やしない」とタカをくくって、「安保法制を通したいなら改憲が先だ」「でも憲法は経典だから変えてはならない」(キリッ)と開き直っている。自分たちの主張が如何に憲法を毀損しているかも気付かずに……。
「憲法変えるのは絶対嫌、米追従も嫌、でも国連任務に参加しないひきこもり日本も嫌!」といった護憲派のわがままぶりは、改憲派だけではない多くの国民を白けさせていることだろう。
広く一般に改憲議論を起こす必要があるが、その際、改憲派が気をつけなければならない点がある。
改憲派がよく指摘する憲法の成立過程や前文の他力本願ぶりは確かに重大な問題だが、憲法に特段のこだわりがない人からすると「今まで平気だったんだからこれからも平気だろう」と考える人が大半だろう。なにせ、「押し付けだ」と言いながら既に七十年近く使って来ているのである。
また、行きすぎもある。憲法成立の事情をそれほど知らない国民に対して一足飛びに「大日本帝国憲法に戻すべきだ!」「憲法破棄!」と言えば、それが改憲派の「筋」だとしても、よほどていねいな説明を前提としなければ、誤解を受けかねない。
「ちょっと変えるくらいなら仕方ないと思うんだけど、気を許すと破棄だとか、帝国憲法万歳だとか言い出すから、危なくておちおち改憲に賛成できない」と言われてしまい、改憲さえもどんどん遠のくことになる。これでは護憲派の思うツボだ。まずは何を置いても九条を何とかするのが先だ。
「憲法は確かにワケありの出自ではあるけれど、それでも七十年間使って来た。これからは憲法を国民の手で育てていく必要がある。憲法を尊重しつつ、現状に合うように綻びを繕ってこれからも使い続けよう」
改憲・護憲の骨がらみの議論にとらわれず、議論の入り口でフラットに考えてみると、これがそんなに難しいことだとは思えない。憲法を改正できれば、改憲派は実を取れるし、護憲派も戦後憲法を今後も使い続けられる。
改憲と、憲法の尊重は矛盾しない。
言論プラットフォーム「アゴラ」梶井彩子氏の記事より引用
不思議の国
潮目が変わった、という意見が増えているようです。憲法審査会の場で与党推薦の参考人を含む三人の憲法学者が安保法制について違憲との見解を示したことがきっかけです。左派勢力からは違憲論が、与党内からは不手際論が、メディアから思惑含みの政局論が飛び出してきました。1960年に、岸首相が安保条約と刺し違えて退陣した故事を引いて、安倍首相に対する因縁論まで出てきています。この種の議論には、予言の自己実現性という要素がありますから、永田町で緊張感が高まっているのは事実でしょう。
私としては、三人の憲法学者の意見は、特段の驚きということではありませんでした。代表的な憲法学者の発言や著作に触れてきた方であれば、そうだろうと思います。憲法秩序の安定性を何よりも重視し、現実世界を法解釈にひきつけて線引きしようとする姿勢は法律家にとっては自然なものでしょう。しかし、三人の憲法学者の意見が、社会にこれだけ影響を与えるということは少し予想外でした。
日本はいまだに「不思議の国」なのだなと。冷戦後四半世紀の国際社会の変化はこの国を本質的には変えてこなかったし、90年代のPKO以来の日本国内での議論はいったいなんだったのかという感慨です。日本の安全保障をめぐる議論は、本当に双六のはじめに戻っていいものか。安全保障政策の一大転換をめぐる議論が、憲法論にジャックされていいものか、ということです。
これまでも申し上げてきたとおり、戦後日本の安全保障政策は、憲法解釈のごまかしの歴史でした。戦力の不保持と言われれば、軍事組織を「警察予備隊」と名付けました。認められる武力行使を「必要最小限度」の自衛権に限定し、その中身について延々とガラス細工の解釈論を積み上げてきました。今般問題となっているのも、この「必要最小限度」の線をどこに引くかということです。政府は、「新三要件」という限定をつけることで集団的自衛権も認められるとし、憲法学者の三人はそれに反対したということです。
断ち切れなかった甘えの構造
国際紛争に触れてきた者の殆どはペシミストです。世界がいかに暴力と不正と偽善とに満ちているか日々突きつけられるからです。平和や正義は、絶望感の中に見出す一筋の光明でしかなく、多くの献身的な人々の不断の努力の上に築かれていることを知っているからです。そこにおいて戒められるべき一番のことは、甘えです。リアリズムとは、世界を理解する上でも、自らを律する上でも甘えを廃するということに他なりません。
もちろん、国内の民主主義のプロセスにおいて、厳しい緊張感を持続させることには無理がありますから、多少はお題目に流れる向きもあるでしょう。けれど、責任あるリーダーは現実を語らなければいけないし、伝える側にもプロ意識が必要です。何十年に一度の政策転換の過程の、ここ一番のときにこそ真価が問われるのです。
憲法学者が提示した違憲論に飛びついて右往左往する日本社会には、国際社会から発せられる緊張感から解放されたいという甘えの構造を感じます。中国が台頭し、北朝鮮の核武装が既成事実化し、米国の力にも限りが見えています。国際的なテロリズムが日本にとっても他人事でなくなり、宇宙もサイバー空間も新しい戦場になろうとしているときに、「そうは言っても、えらい学者さんが違憲だと言っているんだから」として、思考をいったん停止する誘惑には根強いものがあるのでしょう。
過去25年の安全保障環境の変化
一般に、憲法学の立場からされる安全保障の議論には三つほど違和感があります。一つは、日進月歩の安全保障の現実を十分に踏まえていないこと。一つは、同盟を機能させる現実を十分に踏まえていないこと。最後の一つは、憲法と法律の空間を無用に拡大することです。もちろん、憲法学者の意見が一様なわけもなく、大変尊敬している先生もいらっしゃる中での少々乱暴な一般化であることは、あらかじめ断っておく必要があるでしょうが。
安全保障の世界は、冷戦後の四半世紀の間に大きく変化しました。精密誘導兵器が本格的に実戦投入されたのは90年代初頭の湾岸戦争です。そこから、社会全体の情報化に輪をかけて軍の情報化が加速します。いわゆる軍事革命です。現代戦の優劣は指揮・情報系統の能力で決まってくるため、一定の同盟関係にある軍隊は個別に行動しても戦力となりにくく、戦場では足手まどいとなるか、場合によっては危険ですらあります。同盟国の軍隊の一体化は不可逆的な技術上の要請なのです。殆どの国が、自国の安全保障を一国で完結できなくなったというのは、予算上の制約を指して言う場合もあるけれど、第一義的には、文字どおりそうなのです。それに対し、予算の専門家や古い安全保障認識に頼っている人々は、船の隻数など数の積み上げのみで軍事力を理解しようとしています。
過去四半世紀の安全保障のもうひとつの変化は、戦場があいまいとなったことです。冷戦中は、前線が明確に存在しました。朝鮮半島であれば北緯38度線がそれであり、欧州であれば、ベルリンの壁がそうでした。核戦争以外では、前線と後方が安定的に分離しており、危険を伴う戦場を特定できたのです。冷戦のタガが外れて地域紛争が勃発し、独裁政権が倒れました。イラク戦争をはじめとする愚かな戦争もありました。結果として生じたのは、秩序の崩壊であり、地球規模でのテロリズムの拡散です。宇宙の戦場化も着々と進行しており、いまや最も激しい戦闘が行われているのではサイバー空間です。
安保法制に関する憲法学者の懸念の大きなものとして、外国の軍隊を守るのか、自衛でなくて他衛を行うのかというものがあります。また、武力行使の明確な歯止めとして、地理的制約を求める意見が根強い。申し訳ないけれど、それは、現代戦の現実を踏まえていないのです。ある意味、憲法学者が懸念するとおりなのだけれど、自衛と他衛は分けられなくなってしまったし、脅威は地理的に定義することも難しくなったのです。その厳密な理解なしに、カジュアルな物言いとしての「地球の裏側」まで行くという雑な議論がまかり通ってしまうのは、いったいなぜなのか。この辺りにこそ、法律家が重視する厳密さが発揮されるべきなのです。
民主主義国の同盟
同盟を考える上で重要なのは、冷戦後、特にイラク戦争後の世界は、米国が「帝国」的な存在から、多極的な世界における大国へと変化していく時代にあるということです。この変化は、過去の帝国の権力移行と異なり、米国が民主主義国であるという点が際立っています。米国民の意思によってこの変化が加速する可能性が高いということです。世界の警察の座を下りた米国民は、同盟国にもギブ・アンド・テイクを求めるでしょう。民主主義国の国民感情として当然の動きであろうと思います。
米国は、日米同盟を通じて、日本が攻撃を受けた際には防衛義務を負っています。その義務をはたす過程で、米国兵がリスクを負い、血を流す可能性も当然あるでしょう。よくよく考えてみれば、すごいことです。
ちょっとした安全保障通の方から、「米国は日米同盟抜きでは超大国ではあり得ない」という意見をよく聞きます。米国から見ても日米同盟は重要であるという意味では、多少はあたっています。ただ、民主主義国の感情面をまったく理解していない意見です。民主主義国間の攻守同盟の根幹には信頼関係があります。この信頼関係がないようであれば、有事にはどのみち役に立ちませんから、同盟などはやめてしまうべきです。
私には、憲法学者が同盟に対して敵対的に思えてならないのですが、どういうわけでしょう。憲法をはじめとする国内法という「こちらの事情」と、対外関係を考える際の国際法や条約との間の一定の緊張関係に違和感があるのでしょうか。以上に申し上げたような感情面も含めた思考体系が性に合わないのでしょうか。国連憲章は、武力行使が認められる場合として、一国が行使する自衛権と、国際社会が共同して対処する集団安全保障の中間的な形態としての同盟を許容しています。今から何百年かたって、国際社会が平和の危機に共同で対処する時代が来るかもしれないけれど、当座の現実としては、同盟こそが殆どの国にとって最も重要な安全保障の枠組みなのです。しかも現在の東アジアにおいて、同盟や集団的自衛権を時代遅れのものとして語ることは、常備軍の廃止を訴えることと同じくらい「未来志向」の主張であることは踏まえておいていただきたい。
法治国家を形作るもの
憲法学的安保論に対する懸念の最後は、あらゆる問題を憲法論・法律論にしてしまうということです。法律論では、解釈の安定性が大事ですから、静的な適用要件を予め決めておきたいという要請が働きます。動的に事態が進展する安全保障の世界において、この発想はなかなか曲者です。現場で役に立つ基準を作りたいのであれば、法的な要件を事細かく定めるのではなく、原則をしっかり決めておく必要があるのです。立法府と行政府の関係にも関わってくるけれど、安全保障分野には行政の裁量さえ認めないということでは現実的な政策遂行は望めません。
法律というものは、実態からかけ離れすぎては効果を失うのです。人間性に反するルールは、結局だれも守らなくなり、ルールそのものの信頼性を損なうからです。仮に、日米の部隊が公海上で共同警戒活動を行っていて米艦が攻撃を受け、更なる犠牲が迫っているとしましょう。自衛隊の護衛艦が敵艦に反撃できる態勢にあるのに集団的自衛権を行使しないとすればどうでしょうか。
仲間を見捨てることは、軍人のモラールに反するでしょうし、人間性に反するということもできるでしょう。それでも反撃すべきでないとするならば、護衛艦の艦長に超法規的な判断を迫っているのと同じです。難しい判断を現場に押し付けることは、法治国家では絶対にやってはいけないことです。実務家が法律を尊重するためには、法律家は現実の世界に敏感でなければいけないのです。その両輪があってはじめて、立憲主義が成り立ち、法治国家が成り立つのです。
蛇足ながら付け加えると、日本の防衛関係者は立憲主義や法治主義を非常に重視しています。集団的自衛権の行使を前提とした訓練は、図上演習さえ行ってきませんでした。自衛隊の一部に法務の専門家がいることは重要だけれど、すべての部隊長がガラス細工の法解釈を絶えず気にしていては、実力組織は維持できません。
政権に不手際があっても安保法制は必要
潮目が本当に変わったとするならば、安倍政権の答弁の不手際が誤解を招いたという側面も大きいでしょう。政権が、有事に際してフリーハンドを確保したいという姿勢をとったのに対し、野党は明確な歯止めを引き出すべく細かい質問を続けました。国会で意見をぶつけ合う過程で、より良い方案へと修練していくというもありますから、それが健全な場合もあります。それでも、石油の禁輸を通じて国民が餓死/凍死する事態や、米艦船に邦人が乗っている事態を、全部ひっくるめて存立危機事態としたことでいかにも場当たり的な印象を与えてしまった。
現政権については、一部の閣僚や首相のとりまきにはいろいろ言いたいことも多いし、力不足の向きもいるようです。過去に集団的自衛権行使が改憲なしには許されないと強調してきた中谷防衛大臣に対して、野党は血の匂いを嗅ぎつけたサメのように攻め立てており、どうもグラついているように見える。他の政策分野における非リベラル性についても注文があるし、自民党2012年改憲草案に体現された国家観、社会観、憲法観にはとてもついていけないというか、正直、怒りさえ覚えます。
しかし、それでも安保法制は日本の安全保障のために求められていると思います。平和と自由と豊かさを引き続き守っていくためには必要だと思うからです。そしてそれが、政権の不手際とは関係のない本質だからです。一度政権を担い、安全保障においてリアリズムを標榜する民主党議員はそうした声を上げるべきでしょう。維新の党についても同じことが言えます。政局を追い求める気持ちはわかるけれども、安全保障は政局でもてあそぶべきものではないし、そのような姿勢では本格的に政権を奪還するつもりがないとみなされても仕方がありません。
長期政権を見込んでいる安倍政権には、法案と刺し違える気など毛頭ないと思うけれど、局面を打開するタイミングではあるでしょう。その際、ぜひ安全保障環境の変化と同盟の持続可能性について、これまでよりも率直な言葉で語ってほしいと思います。今般の変更によって、現場のリスクは高まるという当たり前の事実を認めたうえで、抑止にとどまらない更なる外交の必要性を認め、その両輪があってこそ国民の安全も高まるということを丁寧に主張することです。
集団的自衛権は国際的には必要とされており、国防を現実的なコストで行い、日米同盟を維持するために必要であると認めたとしても、国民は理解するだろうと思います。むしろやってはいけないことは国民の理解力を低く見ることです。
安保法制をめぐる展開は、最後は強行採決ということになるでしょう。政権にはそれまでにぜひ説明を尽くしてもらいたいと思います。
ブログ「山猫日記」より引用
潮目が変わった、という意見が増えているようです。憲法審査会の場で与党推薦の参考人を含む三人の憲法学者が安保法制について違憲との見解を示したことがきっかけです。左派勢力からは違憲論が、与党内からは不手際論が、メディアから思惑含みの政局論が飛び出してきました。1960年に、岸首相が安保条約と刺し違えて退陣した故事を引いて、安倍首相に対する因縁論まで出てきています。この種の議論には、予言の自己実現性という要素がありますから、永田町で緊張感が高まっているのは事実でしょう。
私としては、三人の憲法学者の意見は、特段の驚きということではありませんでした。代表的な憲法学者の発言や著作に触れてきた方であれば、そうだろうと思います。憲法秩序の安定性を何よりも重視し、現実世界を法解釈にひきつけて線引きしようとする姿勢は法律家にとっては自然なものでしょう。しかし、三人の憲法学者の意見が、社会にこれだけ影響を与えるということは少し予想外でした。
日本はいまだに「不思議の国」なのだなと。冷戦後四半世紀の国際社会の変化はこの国を本質的には変えてこなかったし、90年代のPKO以来の日本国内での議論はいったいなんだったのかという感慨です。日本の安全保障をめぐる議論は、本当に双六のはじめに戻っていいものか。安全保障政策の一大転換をめぐる議論が、憲法論にジャックされていいものか、ということです。
これまでも申し上げてきたとおり、戦後日本の安全保障政策は、憲法解釈のごまかしの歴史でした。戦力の不保持と言われれば、軍事組織を「警察予備隊」と名付けました。認められる武力行使を「必要最小限度」の自衛権に限定し、その中身について延々とガラス細工の解釈論を積み上げてきました。今般問題となっているのも、この「必要最小限度」の線をどこに引くかということです。政府は、「新三要件」という限定をつけることで集団的自衛権も認められるとし、憲法学者の三人はそれに反対したということです。
断ち切れなかった甘えの構造
国際紛争に触れてきた者の殆どはペシミストです。世界がいかに暴力と不正と偽善とに満ちているか日々突きつけられるからです。平和や正義は、絶望感の中に見出す一筋の光明でしかなく、多くの献身的な人々の不断の努力の上に築かれていることを知っているからです。そこにおいて戒められるべき一番のことは、甘えです。リアリズムとは、世界を理解する上でも、自らを律する上でも甘えを廃するということに他なりません。
もちろん、国内の民主主義のプロセスにおいて、厳しい緊張感を持続させることには無理がありますから、多少はお題目に流れる向きもあるでしょう。けれど、責任あるリーダーは現実を語らなければいけないし、伝える側にもプロ意識が必要です。何十年に一度の政策転換の過程の、ここ一番のときにこそ真価が問われるのです。
憲法学者が提示した違憲論に飛びついて右往左往する日本社会には、国際社会から発せられる緊張感から解放されたいという甘えの構造を感じます。中国が台頭し、北朝鮮の核武装が既成事実化し、米国の力にも限りが見えています。国際的なテロリズムが日本にとっても他人事でなくなり、宇宙もサイバー空間も新しい戦場になろうとしているときに、「そうは言っても、えらい学者さんが違憲だと言っているんだから」として、思考をいったん停止する誘惑には根強いものがあるのでしょう。
過去25年の安全保障環境の変化
一般に、憲法学の立場からされる安全保障の議論には三つほど違和感があります。一つは、日進月歩の安全保障の現実を十分に踏まえていないこと。一つは、同盟を機能させる現実を十分に踏まえていないこと。最後の一つは、憲法と法律の空間を無用に拡大することです。もちろん、憲法学者の意見が一様なわけもなく、大変尊敬している先生もいらっしゃる中での少々乱暴な一般化であることは、あらかじめ断っておく必要があるでしょうが。
安全保障の世界は、冷戦後の四半世紀の間に大きく変化しました。精密誘導兵器が本格的に実戦投入されたのは90年代初頭の湾岸戦争です。そこから、社会全体の情報化に輪をかけて軍の情報化が加速します。いわゆる軍事革命です。現代戦の優劣は指揮・情報系統の能力で決まってくるため、一定の同盟関係にある軍隊は個別に行動しても戦力となりにくく、戦場では足手まどいとなるか、場合によっては危険ですらあります。同盟国の軍隊の一体化は不可逆的な技術上の要請なのです。殆どの国が、自国の安全保障を一国で完結できなくなったというのは、予算上の制約を指して言う場合もあるけれど、第一義的には、文字どおりそうなのです。それに対し、予算の専門家や古い安全保障認識に頼っている人々は、船の隻数など数の積み上げのみで軍事力を理解しようとしています。
過去四半世紀の安全保障のもうひとつの変化は、戦場があいまいとなったことです。冷戦中は、前線が明確に存在しました。朝鮮半島であれば北緯38度線がそれであり、欧州であれば、ベルリンの壁がそうでした。核戦争以外では、前線と後方が安定的に分離しており、危険を伴う戦場を特定できたのです。冷戦のタガが外れて地域紛争が勃発し、独裁政権が倒れました。イラク戦争をはじめとする愚かな戦争もありました。結果として生じたのは、秩序の崩壊であり、地球規模でのテロリズムの拡散です。宇宙の戦場化も着々と進行しており、いまや最も激しい戦闘が行われているのではサイバー空間です。
安保法制に関する憲法学者の懸念の大きなものとして、外国の軍隊を守るのか、自衛でなくて他衛を行うのかというものがあります。また、武力行使の明確な歯止めとして、地理的制約を求める意見が根強い。申し訳ないけれど、それは、現代戦の現実を踏まえていないのです。ある意味、憲法学者が懸念するとおりなのだけれど、自衛と他衛は分けられなくなってしまったし、脅威は地理的に定義することも難しくなったのです。その厳密な理解なしに、カジュアルな物言いとしての「地球の裏側」まで行くという雑な議論がまかり通ってしまうのは、いったいなぜなのか。この辺りにこそ、法律家が重視する厳密さが発揮されるべきなのです。
民主主義国の同盟
同盟を考える上で重要なのは、冷戦後、特にイラク戦争後の世界は、米国が「帝国」的な存在から、多極的な世界における大国へと変化していく時代にあるということです。この変化は、過去の帝国の権力移行と異なり、米国が民主主義国であるという点が際立っています。米国民の意思によってこの変化が加速する可能性が高いということです。世界の警察の座を下りた米国民は、同盟国にもギブ・アンド・テイクを求めるでしょう。民主主義国の国民感情として当然の動きであろうと思います。
米国は、日米同盟を通じて、日本が攻撃を受けた際には防衛義務を負っています。その義務をはたす過程で、米国兵がリスクを負い、血を流す可能性も当然あるでしょう。よくよく考えてみれば、すごいことです。
ちょっとした安全保障通の方から、「米国は日米同盟抜きでは超大国ではあり得ない」という意見をよく聞きます。米国から見ても日米同盟は重要であるという意味では、多少はあたっています。ただ、民主主義国の感情面をまったく理解していない意見です。民主主義国間の攻守同盟の根幹には信頼関係があります。この信頼関係がないようであれば、有事にはどのみち役に立ちませんから、同盟などはやめてしまうべきです。
私には、憲法学者が同盟に対して敵対的に思えてならないのですが、どういうわけでしょう。憲法をはじめとする国内法という「こちらの事情」と、対外関係を考える際の国際法や条約との間の一定の緊張関係に違和感があるのでしょうか。以上に申し上げたような感情面も含めた思考体系が性に合わないのでしょうか。国連憲章は、武力行使が認められる場合として、一国が行使する自衛権と、国際社会が共同して対処する集団安全保障の中間的な形態としての同盟を許容しています。今から何百年かたって、国際社会が平和の危機に共同で対処する時代が来るかもしれないけれど、当座の現実としては、同盟こそが殆どの国にとって最も重要な安全保障の枠組みなのです。しかも現在の東アジアにおいて、同盟や集団的自衛権を時代遅れのものとして語ることは、常備軍の廃止を訴えることと同じくらい「未来志向」の主張であることは踏まえておいていただきたい。
法治国家を形作るもの
憲法学的安保論に対する懸念の最後は、あらゆる問題を憲法論・法律論にしてしまうということです。法律論では、解釈の安定性が大事ですから、静的な適用要件を予め決めておきたいという要請が働きます。動的に事態が進展する安全保障の世界において、この発想はなかなか曲者です。現場で役に立つ基準を作りたいのであれば、法的な要件を事細かく定めるのではなく、原則をしっかり決めておく必要があるのです。立法府と行政府の関係にも関わってくるけれど、安全保障分野には行政の裁量さえ認めないということでは現実的な政策遂行は望めません。
法律というものは、実態からかけ離れすぎては効果を失うのです。人間性に反するルールは、結局だれも守らなくなり、ルールそのものの信頼性を損なうからです。仮に、日米の部隊が公海上で共同警戒活動を行っていて米艦が攻撃を受け、更なる犠牲が迫っているとしましょう。自衛隊の護衛艦が敵艦に反撃できる態勢にあるのに集団的自衛権を行使しないとすればどうでしょうか。
仲間を見捨てることは、軍人のモラールに反するでしょうし、人間性に反するということもできるでしょう。それでも反撃すべきでないとするならば、護衛艦の艦長に超法規的な判断を迫っているのと同じです。難しい判断を現場に押し付けることは、法治国家では絶対にやってはいけないことです。実務家が法律を尊重するためには、法律家は現実の世界に敏感でなければいけないのです。その両輪があってはじめて、立憲主義が成り立ち、法治国家が成り立つのです。
蛇足ながら付け加えると、日本の防衛関係者は立憲主義や法治主義を非常に重視しています。集団的自衛権の行使を前提とした訓練は、図上演習さえ行ってきませんでした。自衛隊の一部に法務の専門家がいることは重要だけれど、すべての部隊長がガラス細工の法解釈を絶えず気にしていては、実力組織は維持できません。
政権に不手際があっても安保法制は必要
潮目が本当に変わったとするならば、安倍政権の答弁の不手際が誤解を招いたという側面も大きいでしょう。政権が、有事に際してフリーハンドを確保したいという姿勢をとったのに対し、野党は明確な歯止めを引き出すべく細かい質問を続けました。国会で意見をぶつけ合う過程で、より良い方案へと修練していくというもありますから、それが健全な場合もあります。それでも、石油の禁輸を通じて国民が餓死/凍死する事態や、米艦船に邦人が乗っている事態を、全部ひっくるめて存立危機事態としたことでいかにも場当たり的な印象を与えてしまった。
現政権については、一部の閣僚や首相のとりまきにはいろいろ言いたいことも多いし、力不足の向きもいるようです。過去に集団的自衛権行使が改憲なしには許されないと強調してきた中谷防衛大臣に対して、野党は血の匂いを嗅ぎつけたサメのように攻め立てており、どうもグラついているように見える。他の政策分野における非リベラル性についても注文があるし、自民党2012年改憲草案に体現された国家観、社会観、憲法観にはとてもついていけないというか、正直、怒りさえ覚えます。
しかし、それでも安保法制は日本の安全保障のために求められていると思います。平和と自由と豊かさを引き続き守っていくためには必要だと思うからです。そしてそれが、政権の不手際とは関係のない本質だからです。一度政権を担い、安全保障においてリアリズムを標榜する民主党議員はそうした声を上げるべきでしょう。維新の党についても同じことが言えます。政局を追い求める気持ちはわかるけれども、安全保障は政局でもてあそぶべきものではないし、そのような姿勢では本格的に政権を奪還するつもりがないとみなされても仕方がありません。
長期政権を見込んでいる安倍政権には、法案と刺し違える気など毛頭ないと思うけれど、局面を打開するタイミングではあるでしょう。その際、ぜひ安全保障環境の変化と同盟の持続可能性について、これまでよりも率直な言葉で語ってほしいと思います。今般の変更によって、現場のリスクは高まるという当たり前の事実を認めたうえで、抑止にとどまらない更なる外交の必要性を認め、その両輪があってこそ国民の安全も高まるということを丁寧に主張することです。
集団的自衛権は国際的には必要とされており、国防を現実的なコストで行い、日米同盟を維持するために必要であると認めたとしても、国民は理解するだろうと思います。むしろやってはいけないことは国民の理解力を低く見ることです。
安保法制をめぐる展開は、最後は強行採決ということになるでしょう。政権にはそれまでにぜひ説明を尽くしてもらいたいと思います。
ブログ「山猫日記」より引用
◎憲法学者はGHQの洗脳から離脱できない
枝野は政治学入門の講義を受け直せ
自民党副総裁・高村正彦が「私が批判しているのは憲法学者の言うことをうのみにしている政治家だ」と民主党幹事長・枝野幸男に切り返したが、見事に急所を突いている。枝野の「谷垣氏も高村氏も40年前の憲法議論をベースにしているのではないか。40年間、どれほど憲法の勉強をしたのか。もう1回、大学の憲法の授業を聞き直せ」との批判に反論したものだ。高村発言は、憲法学者3人の安保法制違憲論が、いかに時代と安保環境にマッチしていないかだけでなく、これに踊る朝日新聞とその論調に踊らされるポピュリズム政治家・枝野、辻元清美らを諫めたものだ。憲法の授業は先に指摘したとおり、大先生たちが戦後70年同じ帳面を読み上げているものであり、聴講に全く値しない。枝野は大学の政治学入門から講義を聴き直して物を言った方がよい。集団的自衛権の限定行使論議は、最高裁の合憲判決に基づく政治マターであり、浮き世離れした学者の違憲論を根拠にする限り民主党に勝ち目はない。既に負けると予想しているから“今をときめく”辻元が憲法解釈変更について「再び民主党政権になったら元に戻した方がいい。」と発言しているではないか。「民主党政権」が未来永劫(えいごう)あり得ないとすれば、元に戻すこともあり得ないのだ。
官房長官・菅義偉が安保法制合憲論の学者の名前を挙げた中で中央大名誉教授・長尾一紘の発言が一番問題の核心を突いている。長尾は毎日に「戦後70年、まだ米国の洗脳工作にどっぷりつかった方々が憲法を教えているのかと驚く。一般庶民の方が国家の独立とはどういうことか気づいている」と指摘した。確かに法学者は「洗脳工作」で戦争直後に作った大学講義の帳面が代々引き継がれているとしか思えない。連合国総司令部(GHQ)は戦争直後の7年間の占領期間中、国民の間に植え付けられた軍国主義の思想を徹底的に洗い直す「洗脳工作」(War Guilt Information Program)に専念した。戦争の罪悪感を日本人の心に植え付け、絶対平和主義が理想であるかのごとき思想を徹底させた。これは軍国主義の復活で日本が再びパワーを持つことを恐れたものだ。平和憲法もその流れをくむものであろう。
この日本の牙(きば)抜き洗脳工作はその後の朝鮮戦争の勃発など環境激変で意義を薄れさせたが、極東をめぐる情勢は、天から平和が降ってくると言う思想では対処しきれなくなった。天から降ってくるのは200発のノドンであり、中国は漁船を巡視艇に衝突させて、尖閣領有の可能性を探っている。この状況変化に対応できないのが憲法学者であり、それを政治的に活用しようとするのが民主党なのだ。世論調査ではまだ反対が多いが、いざ国政選挙で安保問題がテーマとなれば、自民党は勝つのが過去の例だ。1960年11月に行われた総選挙は安保闘争直後にもかかわらず選挙への影響はほとんど無かった。逆に、社会党と民社党の分裂により、自民党が議席を増やした。沖縄返還後の総選挙も圧勝しており、安保が争点になれば自民党は負けたことがない。したがって自民党は来年夏の参院選か衆参ダブル選挙に、堂々と安保法制問題を提示すればよいことだ。
砂川判決は唯一の最高裁による国の安全保障に対する合憲判決であり、朝日は今日(11日付)の社説で「また砂川判決とは驚きだ」と書いているが、この主張の方が驚きだ。砂川判決に準拠して安保法制を作らずに何に準拠せよというのか。59年の砂川判決は、「わが国が、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べているのであり、あまりにも明白すぎて議論の余地がないほどだ。判決には個別的自衛権とも集団的自衛権とも書き込まれていないが、全てを包含するというのが常識だ。さらに重要なのは砂川判決の後半部分である。「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」としている。これが物語るものは国の安全保障に関しては最高裁ではなく政治の判断に委ねるという事であろう。
それはそうだ。裁判官が国防に口を出そうにも出しようがないのだ。国防は三権分立における政治マターの最たるものだ。ましてや憲法学者ごときが国の命運を左右する安全保障問題で反対ののろしを上げ運動をすることは、八百屋が魚河岸でマグロを選ぶのと同じだ。政府・与党は今後反転攻勢に出る構えであり、自民党副総裁・高村正彦が11日の衆院憲法審で自ら意見陳述することを決めた。公明党代表・山口那津男までが、「学識経験者にもいろいろな意見があるが、4日の審査会で発言した方々は、法案に批判的な見解を持った人ばかりだった。政府の考えは一貫しており、その対応は、いささかも揺らぐことはない」と今国会成立を明言している。自民党内はエキセントリックな元行政改革相・村上誠一郎が「憲法学者の意見を一刀両断に切り捨てることが本当に正しい姿勢か。採決に当たっては党議拘束を外してほしい」などと総務会で主張、反逆の構えを見せているが、同調者はゼロ。村上の主張の逆を選べば全ては成功する。
ブログ「永田町幹竹割り」より引用
枝野は政治学入門の講義を受け直せ
自民党副総裁・高村正彦が「私が批判しているのは憲法学者の言うことをうのみにしている政治家だ」と民主党幹事長・枝野幸男に切り返したが、見事に急所を突いている。枝野の「谷垣氏も高村氏も40年前の憲法議論をベースにしているのではないか。40年間、どれほど憲法の勉強をしたのか。もう1回、大学の憲法の授業を聞き直せ」との批判に反論したものだ。高村発言は、憲法学者3人の安保法制違憲論が、いかに時代と安保環境にマッチしていないかだけでなく、これに踊る朝日新聞とその論調に踊らされるポピュリズム政治家・枝野、辻元清美らを諫めたものだ。憲法の授業は先に指摘したとおり、大先生たちが戦後70年同じ帳面を読み上げているものであり、聴講に全く値しない。枝野は大学の政治学入門から講義を聴き直して物を言った方がよい。集団的自衛権の限定行使論議は、最高裁の合憲判決に基づく政治マターであり、浮き世離れした学者の違憲論を根拠にする限り民主党に勝ち目はない。既に負けると予想しているから“今をときめく”辻元が憲法解釈変更について「再び民主党政権になったら元に戻した方がいい。」と発言しているではないか。「民主党政権」が未来永劫(えいごう)あり得ないとすれば、元に戻すこともあり得ないのだ。
官房長官・菅義偉が安保法制合憲論の学者の名前を挙げた中で中央大名誉教授・長尾一紘の発言が一番問題の核心を突いている。長尾は毎日に「戦後70年、まだ米国の洗脳工作にどっぷりつかった方々が憲法を教えているのかと驚く。一般庶民の方が国家の独立とはどういうことか気づいている」と指摘した。確かに法学者は「洗脳工作」で戦争直後に作った大学講義の帳面が代々引き継がれているとしか思えない。連合国総司令部(GHQ)は戦争直後の7年間の占領期間中、国民の間に植え付けられた軍国主義の思想を徹底的に洗い直す「洗脳工作」(War Guilt Information Program)に専念した。戦争の罪悪感を日本人の心に植え付け、絶対平和主義が理想であるかのごとき思想を徹底させた。これは軍国主義の復活で日本が再びパワーを持つことを恐れたものだ。平和憲法もその流れをくむものであろう。
この日本の牙(きば)抜き洗脳工作はその後の朝鮮戦争の勃発など環境激変で意義を薄れさせたが、極東をめぐる情勢は、天から平和が降ってくると言う思想では対処しきれなくなった。天から降ってくるのは200発のノドンであり、中国は漁船を巡視艇に衝突させて、尖閣領有の可能性を探っている。この状況変化に対応できないのが憲法学者であり、それを政治的に活用しようとするのが民主党なのだ。世論調査ではまだ反対が多いが、いざ国政選挙で安保問題がテーマとなれば、自民党は勝つのが過去の例だ。1960年11月に行われた総選挙は安保闘争直後にもかかわらず選挙への影響はほとんど無かった。逆に、社会党と民社党の分裂により、自民党が議席を増やした。沖縄返還後の総選挙も圧勝しており、安保が争点になれば自民党は負けたことがない。したがって自民党は来年夏の参院選か衆参ダブル選挙に、堂々と安保法制問題を提示すればよいことだ。
砂川判決は唯一の最高裁による国の安全保障に対する合憲判決であり、朝日は今日(11日付)の社説で「また砂川判決とは驚きだ」と書いているが、この主張の方が驚きだ。砂川判決に準拠して安保法制を作らずに何に準拠せよというのか。59年の砂川判決は、「わが国が、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べているのであり、あまりにも明白すぎて議論の余地がないほどだ。判決には個別的自衛権とも集団的自衛権とも書き込まれていないが、全てを包含するというのが常識だ。さらに重要なのは砂川判決の後半部分である。「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」としている。これが物語るものは国の安全保障に関しては最高裁ではなく政治の判断に委ねるという事であろう。
それはそうだ。裁判官が国防に口を出そうにも出しようがないのだ。国防は三権分立における政治マターの最たるものだ。ましてや憲法学者ごときが国の命運を左右する安全保障問題で反対ののろしを上げ運動をすることは、八百屋が魚河岸でマグロを選ぶのと同じだ。政府・与党は今後反転攻勢に出る構えであり、自民党副総裁・高村正彦が11日の衆院憲法審で自ら意見陳述することを決めた。公明党代表・山口那津男までが、「学識経験者にもいろいろな意見があるが、4日の審査会で発言した方々は、法案に批判的な見解を持った人ばかりだった。政府の考えは一貫しており、その対応は、いささかも揺らぐことはない」と今国会成立を明言している。自民党内はエキセントリックな元行政改革相・村上誠一郎が「憲法学者の意見を一刀両断に切り捨てることが本当に正しい姿勢か。採決に当たっては党議拘束を外してほしい」などと総務会で主張、反逆の構えを見せているが、同調者はゼロ。村上の主張の逆を選べば全ては成功する。
ブログ「永田町幹竹割り」より引用







