彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

石田三成

2006年10月01日 | 井伊家以外の人物伝
1600年10月1日、石田三成が処刑されました。
という訳で、今回は三成のお話。

JR長浜駅の前に、“出逢いの像”という銅像があります。
一人の武士に、小坊主がお茶を差し上げようとしている姿を現したモノなのですが、この小坊主が、今日のお話の主人公・石田三成です。
この銅像は、三成が15歳のエピソードを元に作られていますので、まずはそのお話を紹介しましょう。

“豊臣秀吉がまだ長浜城主だった時の事、狩りの途中に領内にある観音寺を訪ねて「秀吉じゃ!茶をくれ」と言いました。
すると、小坊主が大きな茶碗にぬるい茶を沢山入れて持ってきました。
喉が渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干しました。そして「もう一服くれ」と言ったのです。
小坊主は、次は一回目より少し小ぶりな茶碗に、前より熱い茶を半分だけ入れて持ってきました。
その茶も飲み干した秀吉は「もう一服」と命じました。
すると小坊主は、高価で小さな茶碗に舌が火傷しそうなくらい熱い茶を少しだけ入れて持って来たのです。
最初は、喉が渇いているから飲みやすい茶を沢山
次は、少し落ちついて飲める量と熱さ
最後は、茶本来のもてなしの為の茶碗と、ゆっくりする為の熱い茶
と、相手の状況に応じて機転を利かせた小坊主に感心した秀吉は、その小坊主を城に連れて帰り、家臣として育てました”

こうして秀吉に仕えるようになった石田三成は、内政政策に興味を持ち、文官として秀吉の近くに居る事が多くなったのです。
三成は秀吉の為に全てを捧げた人物で、「自分には法令・内政などの文治の才能はあっても、戦国時代に必要な勇猛さを持っていない」と悟っていたので、武断派の家臣を持つ事を心掛けました。

最初の家臣は渡辺新乃丞(渡辺勘兵衛という説もあり、ただし槍の勘兵衛とは別人)という人物。
新乃丞は、他の武将が誘っても「自分は10万石の領地が貰えなければ仕えません」と言い続けていましたが、500石の知行しかない三成に従ったので、不思議に思った秀吉が三成に理由を訪ねると「500石で召抱えました、自分は今、新乃丞の居候です」と涼しい顔で答えたそうです。
また、水口で4万石の城主になった時は、高宮で隠棲生活を送っていた豪傑・島左近を知行の半分である2万石で召抱えました(1万5千石説もあります)。

渡辺新乃丞も島左近も、当時どの武将も欲しがった有能な豪傑だったからこそ、三成は自分に足りない物を補って秀吉の役に立つ人物として、自分の出せる全てで誠意を示して家臣としたのでした。
三成の家臣の殆んどは、三成の秀吉の対する忠誠心に男惚れ(おとこぼれ)して仕えた人物が多かったので、知行の加増(今で言うなら給料の値上げ)を断る人が多かったそうです。

やがて、佐和山城19万石の城主となった三成は、中央政治の中でも官僚として多くの政策に関わりましたが、それと同時に佐和山領内では善政を尽しました。
凶作の年に年貢を免除した話も残っているが、ただ甘いだけではなく厳格な政策もあり、江戸時代を通して連帯責任制度として犯罪防止に役だった“五人組”制度は三成のアイデアを徳川家康がマネしたものです。

こんな三成でしたが、秀吉の重臣には「政治よりも戦いが重要」と考える人物が多く、秀吉の天下統一後は、“戦いが続いた日本を内政で立て直そうとする文治派”と“戦いが終わりやる事が無い武断派”が争うようになり、三成が攻撃対象となりました。
そんな中でも、秀吉の信頼が厚かった為に、秀吉晩年時代の官僚制度である“五大老・五奉行”の中で五奉行の第二席に任命されたのでした。

そして、秀吉が亡くなった後、豊臣家を守ろうとする三成は、秀吉の後釜を狙う徳川家康と対立し、関ケ原の戦いで敗北しました。
三成が嫌いという理由だけで家康に味方した武断派の大名達は、自分が世話になった豊臣家を自分達の手で滅ぼす手助けをした事となったのです。

関ケ原の戦いでの敗北後、三成は伊吹山の麓で隠れていました。
この時、領民達が自分の危険も顧みずに三成を庇ったと伝わっています。しかし、捜索の手が近くまで迫った事を知り、自分を匿うと罰を受けるとして、自分から捕縛隊の前に姿を現しました。

捕まった後に、京の六条河原で打ち首と決まった三成は、処刑当日、刑場に引かれて行く途中で、護衛の兵に「喉が渇いた」と言い白湯を求めました。
あいにく湯の持ち合わせが無かった兵は、近くの民家に干してあった干し柿を変わりに差し出すと、「気持ちはありがたいが、干し柿は痰の毒なので」と断ったのです。
「これから首を切られる者が、体を養生してどうする」と言って兵が周りの者と大笑いすると、三成は「大儀を志す者は、命を失うその瞬間まで体を大事にするものだ」と語り、笑った者は恥じ入ったと伝わっています。
茶の湯から始まった石田三成の逸話は、白湯でその全てを終えたのでした。

石田三成の後に佐和山城主となったのは、関ケ原の戦いで家康の重臣として勇敢に戦った井伊直政でした。
直政は、三成の善政を知る領民から三成の記憶を消す事に苦労したようで、統括地の村々に毎年正月に「ここには石田三成の血縁の者は居ません」という証文に村人全員の署名、捺印を取って提出させていました。
そして、2代藩主・直孝の時には城が彦根城に移ったのを切っ掛けに佐和山を廃山として領民の立入りを禁止しました。
以後、彦根では石田三成の話はタブーとされてきましたが、歴史的には水戸黄門こと水戸光圀や西郷隆盛は三成の功績を高く評価しています。


三成の遺構は、彦根市内の佐和山城跡をはじめ、生誕地である長浜市の石田八幡社や、関ケ原の戦いの後に三成が匿われた木之本町古橋の与次郎大夫屋敷跡・オトチ洞窟など彦根近辺に点在しています、まだまだ歴史の中の悪役として扱われている人物だからこそ400年祭を切っ掛けに新しい評価を発信していきたい人物の一人です。

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