ものを投げないで下さい

家具仏具や音楽、仏教、政治生活などを取り扱う徒然日記

日本の仏教最終回~仏教のしきたりと暮らし~

2012-06-28 12:45:09 | 仏教

近年「葬式仏教」と揶揄されるように一般の人々にとって
寺院ってのは葬儀に法要、墓参りの場と認識されることが
多くなったように思います。

私たちが関わってる葬儀と仏教の関わりってのは
「日本独自」のもので他の仏教国では通常お坊さんは
葬儀には関与しません。

模範解答を言うなら歴史的には中世のお坊さんが
民衆の要請に応える形で
「葬儀?本職じゃないけどいっとく~?」
みたいなノリで始まったのが元祖で
江戸時代に「寺請制度」(檀家制度)が始まったことに
よって今日のような葬儀法要のスタイルが定着したのかなと
思います。


今日では仏教葬がメインだけどその流儀は仏教だけで説明が
つくもんじゃないと思っています。仏教以前の死生観や
地域の風習や民俗宗教や儒教的な作法とかが混じって
積み重ねられたもんだと思います。

ともかく大事なのは身近な人を失った悲しみを
使者の冥福を祈るというかたちにカッコつける
ことで、そこで極楽浄土へと導く一連の仏教儀礼が
意味を持つことになるのかなと思います。



まずお通夜では死者の鎮魂の為に枕経が唱えられて
戒名が授けられます。往生して仏さんになるには
浄土を主催する仏さんの弟子になって修行しなくちゃ
いけないわけです。そりゃあタダで極楽へは行けません。
そこで受戒して戒名を授けられるわけです。

葬儀では読経と引導の作法が行われます。
引導とは導師が棺の前に立って法語と呼ばれる言葉
を唱えることなんだけどこれは死者が迷いの世界
から極楽へ行ける為に導くことを意味しています。
「極楽ナビ」ってとこでしょうか。

つまりよくアニメで「引導を渡してやる~!」
と必殺技を出す時に言うキャラクターは
実家が仏教なんでしょう


その一方死者の遺族は花とかお香とか灯明を添えて
葬儀に望み魂を「無事にうまいことやるんだよ~」と
死出の旅へと送り出すわけです。




こうしてのちに一定の時期ごとに供養が営まれます。
最初は四十九日までの法要でその後は一周忌、三回忌
七回忌、十三回忌、三十三回忌と続きます。

四十九日の期間は現世と来世の中間にあたる「中陰(ちゅういん)」
と呼ばれガムみたいな名前なんですが、この間死者は冥土の
旅を行って七日ごとに七人の裁判官のもとで現世でやってきた
事に対して裁判を行います。有名な閻魔大王はこの中の
一人に過ぎません。しかも七人の中で比較的優しい部類です。

このとき遺族が仏にお線香上げたり、飲食などを供物することで
功徳(仏教ポイント)が溜まり死者の株があがって裁判での
心証が良くなると言われています。それって「賄賂?」って
言われそうですが仏の世界も色々あるんだよタブン。
お世話になる上司にちょっと感謝の印を.....くらいの身内の
営業と考えて下さい。

これは通常の墓参りの際も同様で故人の死後の幸福を
願うなら、筋で言えばまずは菩提寺の本尊に真心を
尽くして仏の功徳を死者の霊に手向けるようにする方が
良いかも知れませんね。ということになるとお線香は
仏教では左上右劣なので、仏壇やお墓を拝む方からみたら
右側のろうそくを先に点火して消すときは逆に後に消しま
しょうという作法になります。



お盆の場合、目蓮(もくれん)さんという人が地獄で
苦しむ母ちゃんをどうやって助けたらいいの?ってお釈迦
様に聞いたら
「百日の修業期間を終えて伝道に出るこの日にお坊さんに
供養を頼んだら良いよ」
と応えたことに始まるようです。ただこれに関しては
日本では神道的風習とかいろんなものがごちゃ混ぜに
なってんので一概に仏教の一言で片付けられるものでは
無いと思います。

ちなみに目蓮さんはモッガーラナとも言いまして
手塚治虫の「ブッダ」にも出てきます。




これらの私たちの暮らしの中での仏教を考えた場合
私たちは仏教の教理とかいまいち意味がわかんないまんま
一生を終えて終えた時に戒名をもらって弟子になって極楽
へ行くと言う形式をとっています。


それで仏教徒って言えるのかよ?という批判の声も
あるにはありますが、それくらいの関わり方で
ある意味私はひとつの広まり方としてアリだとは思っています。


日本はこと宗教に関しては様々なものが入り交じって
今日に至る国です。宗教とはおおむねは人の心の拠り所と
してひとつの哲学なりルールなりをつくったというのが
民衆に広まって行ったものです。


狂信的にそれを信じると考えることを辞めてしまう人が
増え危険なことになりますが、地域の風習や1つの
考え方として日本は神道に仏教を混ぜてうまいことやって
いる国だとは思います。逆に世界を考えた時にこれほど
ビックな宗教とうまいこと付き合っているのもある意味
凄いものです。


私たちが今後仏教と付き合ってくにあたり
別にブツゾーかっこいいな~!でも良いし寺院凄いな~!
でも構わないし、仏教の考え方のここが好き!とかいう
漠然としたもので構わないのでは無いかと思います。
ただ時代の流れ的に仏教に限らず宗教のことをよく知らないくせに
軽視する側面があるのは日本人の場合いただけない部分も
ありますですね(;´∀`)


広く見れば「健康にも良い坐禅」とか「唯一学問的な宗教」
とか「様々な文化のもと」だとかいう見方もあるゆえ
その辺の一端を担っているということで面白いジャンルである。
それくらいのライトな捉え方から興味を持ってもらえれば
良いのではないでしょ~か(´∀`)



ということでシリーズは終りますが
今日まで多岐にわたってふつつかな文ながら
ご愛読下さって有り難うございました~


~おしま~い~



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日本の仏教その12~僧兵の仁義なき戦い~

2012-06-26 19:42:17 | 仏教
仁義なきというと菅原文太とか梅宮のおやじが
出て来て抗争を繰り広げると言うまさに修羅場なんですが
室町幕府も応仁の乱が発生した頃になるとまさに世の中が
修羅場「戦国時代」にはいっていきます。


時代としては著名な有名人やヒーローが多い戦国時代
なんですが仏教的に見ると安定期といっては失礼ですが
思想や教理、文化的にはあまり大きな変化は無い時期でした。

しかしながら世が世なだけに仏教は生き残りをかけて
戦国の世に食いついて行きます。

もともと寺社勢力というのは平安期の頃から
白河上皇だったが

「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、
是朕が心に従わざるもの」


=「川の流れと双六の目と僧兵だけは思い通りになんね~なあ~」


とぼやくように院政を敷いていた頃でさえ操るのは
困難な自治勢力と言えば聞こえは良いけどヤクザな
側面も持っていました。比叡山や興福寺なんてのは特に
巨大な組織を持っていて、仏の教えだけでは身を守れない
ということで軍事力も持っていたのです(´・ω・`)

戦国の世でもこのヤクザ化した勢力というのはバックに
仏教と言う神聖な教えがあるために迂闊に戦国大名も
手は出せずお金を支払うことで大人しくしててくれという
大名が多かった世の中でした。一方で仏教連中とうまく付き
合って行く為に自らが出家した武田信玄のような例もあります。



戦国の世にあって特に注目を集めていたのは浄土真宗本願寺派
の蓮如率いる一向宗でした。

一向宗は民草に真宗の教えを広め戦国の世にあって抜群の
民衆の支持力を持っていた教団で全国的に強い影響力を
持っていました。これらに逆らうものは民衆が一揆を起こし
ついには加賀(石川県)の大名の富樫さんは国を乗っ取られて
しまう程でした。

自治勢力として力を強めて行く僧兵達、将軍家や大名も
仏の力の前ではなかなか手が出し辛いものですが時代が
流れてここに大きく鉈を振り下ろしたのが織田信長でした。

信長は地元尾張で一向一揆が発生しまくっててうんざり
してました。大抵の大名はお金を払って鎮圧するか出家
するかとかしてたんですが信長はこれを徹底的に力で
弾圧し、やがて力を持ち始めるとこれを容赦なく弾圧

これが伊勢長島一揆です。

信長の考えとしてあったのは坊主は坊主の仕事があるのに
国政に関わり利権を得ようとすることに対しての「政教分離」
を計ろうとしたのか単純に坊主がめちゃめちゃ嫌いだったのか
はわかりませんが、その後も一向宗に限らず比叡山焼き打ちなど
容赦ない寺社勢力に対する猛攻をしかけます。

これに死ぬ程抵抗したのが摂津石山本願寺の顕如でしたが
結局顕如も石山本願寺を追われて信長は第六天魔王とか
恐れられ大鉈を仏教に振り下ろします。本願寺ピンチ!(`:ω:´)


しかし信長は仏教そのものが嫌いだったわけではなく
岐阜城という名前も坊主につけさせてますし、特別信長に
対して抵抗の色を見せなかった宗派に関してはスルーしています。

信長の思惑がなんであれ仏教と政治はこれによって少し
政教分離していきます。

この時期はまた丁度キリスト教がやってきた時期でした。
仏教はキリスト教に対して肯定的には当然見ていませんでしたが
大名達はキリスト教のバックにあるオランダやイスパニアとの
貿易を目当てに利用する大名もいました。



全国に強い影響力を持った本願寺はそれこそ3人乗りの自転車で
エッホエッホとあちこち逃げ回って散々な思いをしていましたが
明智による本能寺の変が起きて信長が死んで明智光秀がまた死ぬと
秀吉の時代になり秀吉は本願寺を保護します。

秀吉は石山本願寺の跡地に城を建ててそこを「大坂城」と
名付け本願寺は1つの宗派として再興しますが喧嘩別れを
して「西本願寺」「東本願寺」にわかれて東本願寺は
江戸期になると徳川家康によって保護されてのちの「真宗大谷派」
になります。


この時期お隣の明から陰元さんという禅宗のエラい坊さんが
やってきて黄檗宗というのを開きます。どーでもいいですが
この陰元さんがやってきたころ明から日本に渡って来た
もので今でもよく目にするのが「インゲン豆」で名前はこの人
から来ています。

そして信長は公認していたキリスト教も秀吉や家康のころに
なるとキリスト教は完全に禁止、その理由は別に秀吉や家康が
キリスト教が嫌いだったわけじゃなくて、キリスト教というもの
を市場に溶け込ませそれを侵略の手がかりとするというイスパニア
の手口を知ってしまい無視出来なくなったからです。
(なんか現代にも似たようなことが.......)

それを伊達政宗と共謀し国家転覆を謀ったのが大久保長安でした。
伊達政宗も支倉さんという人をイスパニアに送っています。
まあ大久保の乱は...これはバレて未然に防がれます。


この時期は仏教的に様々な動乱がありましたが思想的には
に大きな変化や改革はありません。江戸期に入ってもそれは
大きく変わらず、江戸末期~明治期の廃仏毀釈によって
仏教は一度は徹底弾圧されましたが、それよりのちは時代は一気
に近代の仏教をベースにした新興在家教団が様々出て来るのです。


~つづく~



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日本の仏教その11~Let it be~

2012-06-25 19:05:46 | 仏教
今度はいきなりビートルズのタイトルです。
まだザビエルが来るか来ないかってとこなのに
いきなり英語が出て来ちゃったよ(/ω\ )
なんでこんな脈略も無さそうなタイトルから入ったのか?

それは読んで行くうちにわかります(゜∀゜)


室町時代に臨済宗はじめ禅宗が足利将軍家のバックアップも
ありブームになりました。その象徴は紛れも無く金閣寺なの
ですがその禅宗の考え方から庶民の生活に浸透していったものが
茶道や花道です。



禅宗とはなんぞや?というお話をさせてもらうと基本は
坐禅により仏に近づこうということ、うんこれだけじゃわからんね。

なんで坐禅が良いの?健康にも良いと言うことは科学的にも
証明されていますがそれはもっと先の話であって、
後の時代の沢庵和尚がこんな面白い説明をしています。

水のことを説明しても実際には濡れないし、
火をうまく説明しても実際には熱くならない。
本当の水、本物の火に直に触ってみなければ
はっきりと悟ることができないのと同様。
食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様


つまり、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性
を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは
得られない次元にあると説き、とりあえずやってみようぜ!
ということで坐禅によって禅定の境地を高めていくこと
を推奨しているわけであります。

私たちがイメージで思い込んでいる

「坊さんは質素な生活をしている!」

というのはこの禅宗の教えによるものです。
もちろん部分的に浄土宗であれ日蓮宗であれこの様式を
採用している部分はあるにはあります。



ここで話をガラリと変えてこの時代に「侘び寂び」という
心がブームになって行きます。

wiki先生によると

侘(わび、侘びとも)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、
その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるよう
に「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては
「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。
もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということ
になろうか。

寂(さび、寂びとも)は動詞「さぶ」の名詞形で、
本来は時間の経過によって劣化した様子(経年変化)
を意味している。転じて漢字の「寂」が当てられ、
人がいなくなって静かな状態を表すようになった。
同様に金属の表面に現れた「さび」には、漢字の
「錆」が当てられている。英語ではpatina(緑青)
の美が類似のものとして挙げられ、緑青などが醸し出す
雰囲気についてもpatinaと表現される。(転載ここまで)




これは特に茶道でこの考えは重視される傾向がありますね。
しかし元を辿ればお茶自体は臨済宗開祖である栄西が
持って返って来たものです。それと禅宗の教えや慎ましい中に
身を置くという考え方に本質のコミュニケーションを見出そう
と合体したのが「茶道」

そして侘び寂びというキャッチフレーズで特に戦国期になると
武士達は動乱の中にマナーをしつけてもらうという意味も
含めて茶道に没頭して行くようになります(`・ω・´)

侘び寂びの心というのは「あるがまま」を受け入れる精神を
養うということです(´∀`)

昨今の古代からの仏像は金箔が剥がれていたり顔料が
剥がれています。しかしこれを修繕しないのはこの侘び寂びの
「あるがまま」の精神からです。骨董品が下手な修理すると
値段が下降するように記念物ものの仏像は構造補強などの
修理はしても表面的な修繕は一切行わずそれを美意識としています。



これはまさに
Let it be(そのままにしとき!)です。
ビートルズの曲で日本でかの曲が好きな人が多いのも
あの歌のメロも去ることながら歌詞や考え方が日本人として
深く共感できるものがあるからかもしれませんね^^


↓Let it be 歌詞
http://www.eigo21.com/03/pops/zb04.htm

~つづく~



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日本の仏教その10~てんつくてんつく~

2012-06-25 00:13:22 | 仏教
いきなり意味不明のタイトルですがこれは
アニメ「一休さん」で有名な考える時のセリフであります(゜∀゜)

鎌倉幕府の設立によって浄土系、法華系、禅宗と
様々な考え方の宗派が民衆へ広まって行きました。


鎌倉幕府は勢いこそ良かったものの滅びの勢いもまた
あっという間で北条氏が実権を握っていました。

院政よ!もう一度!バブルよ再び!では無いですが
後醍醐天皇は鎌倉幕府と雲行きが怪しくなって行きます。
そして、後醍醐天皇は興福寺や延暦寺など南都の寺社勢力と
接近し「オレの時代よもう一度!」と野心をあらわにして
倒幕の兵をあげます。

これが見事にあっさり負けます(/ω\ )
後醍醐天皇はとっ捕まって隠岐島で頭を冷やせ!と流罪

この頃楠木正成とか赤松円心とか反幕府勢力が
あちこちで同時に暴れていた頃であり、幕府はそれの対応に
いっぱいいっぱいでした。そのスキに後醍醐天皇はこっそり
脱出して再び伯耆で兵を挙げます。

これを討伐しに来た足利高氏がコロリと手のひらを返し
幕府軍を裏切り天皇方に寝返った事で京都六波羅探題は
あっちゅうまに攻略されてしまいました。

その直後東国で挙兵した新田義貞によって北条氏は
サヨナラ、鎌倉幕府も滅亡します


これで後醍醐天皇により素晴らしい日本社会になると
思ったのに後醍醐天皇の建武の新政 =後醍醐マニフェストは
表面上は昔の良いもの大事にしようと言う事なんですが
武士にも公家にも最悪な評判でした。醍醐天皇に憧れて
後醍醐なんてでっかい名前を名乗ったのは良かったけど
残念ながらそこまでの政治的力はなかったようです(;´Д`)

結局足利尊氏に離反され南北朝の争いを繰り広げて
最終的には足利家によって室町幕府が出来る.......

ここまでは歴史の授業で習ったと思います。
長い前フリだな(;´∀`)



ここからが本題で足利幕府は尊氏の弟の直義だったかが
禅宗である事や、南北朝の時に後醍醐天皇が延暦寺に
逃げて天台宗が敵になった際に、禅宗の臨済宗は味方に
ついてくれた経緯などから臨済宗は幕府贔屓の宗派になります。

特に夢窓疎石などの尊氏に直接尽力した一族や弟子は
政治的に影響力を持ち幕府と禅宗は密接な関係を持って
いきます。とんちで有名な一休さんが現れるのもこの頃です。
そうです。一休さんは臨済宗です。

義満の第には明貿易なども含め武家と禅宗の関係が
北山文化の象徴として君臨した「金閣寺」として建立され
貴族や一般社会にも水墨画、茶の湯、生け花等の文化として
栄えて行くのです^^



ちょっとついでに一休さんの事を語るとこの人は所謂
人間臭さを前面に出したこの時代のアウトサイダーであります。
臨終の際に「死にたくないよ!」と言ったあたり人間臭いです。
特別この時代歴史に大きく関わった人物ではないですが
その人柄とか奇行の多さとかが物語として有名になりました。


仏教が文化と関わりを広めて行ったのもつかの間
時代は応仁の乱に突入しやがて波乱の戦国時代に
なっていきます。

~つづく~



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日本の仏教その9~モノからヒトへ~

2012-06-20 12:27:24 | 仏教
平安時代も末期になると1つの特徴的考え方が
貴族から農民まで幅広く広がって行きました。

「末法思想」

でございます。私はこれをふざけて「ノストラダブツ」
とか言いましたが内容はそれとよく似ております。
どういうことかというと~?(゜∀゜)


簡単に言えば社会と仏法の変わりゆきにおける予言
みたいなもんで仏教の歴史観と言うかなんというか
そんなもんです。迷信と言っちゃえばそれまでだけど
とにかく当時の人々はそれを信じて危機意識を持っていました。

①「正法」お釈迦様の没後1000年は正しい仏教が教えられて
修行をすればその効果が現れる時期、絶好調だね!(`・ω・´)

②「像法」その後の1000年は仏教の教えは残っているが
教えにしたがって修行をしても効果があんま現れない時期
調子が悪くなって来たね( ゜д゜ )

③「末法」さらにその後は仏教の教えが全く廃れ、悟りを開くべき
修行するヒトもおらず破戒が平然と行われ、天災戦争とか
悪い事が起こりまくりそれが一万年(永久)に続く。
う~ん、完全に賞味期限切れの末期(;´Д`)

千年女王(松本零士)を思い出したよ~

数字はお釈迦様の没年が曖昧なので1000年だったり
1500年だったりしたりしますが1052年がその
末法入りの年といわれこの年から人々は恐れ危機感を
抱くようになったのです。大殺界の比じゃないぜ!(´Д`)



そしてこの時期に平氏から源氏へと時代は変わり
東大寺と興福寺が焼け落ちたり大変な事になり
それまでの仏像の価値観も運慶らの天平リスペクト
によってより民衆向けの精神的にも作品的にも人間味
を意識させるものへと変わって行きました。


仏教の教えそのものもこの時期に民衆を意識したものに
変化して行きます。



●法然

トップバッターは法然でした。法然は誰にでもできる
修行=「易行」を説き一般大衆はただ
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでいいからね!
そうすれば往生出来るからね!という今まで仏像や寺や
絵画などをつくらせまくった春の極楽浄土キャンペーンとは
全く相反した思想を教えました。これが「浄土宗」です

●親鸞

この法然の教えをさらに押し進め塩ラーメンにもやしと
キャベツをのっけて麺を細くして更に食べやすくしたのが親鸞でした。
称名念仏を口にする必要も無い、ただ阿弥陀仏を信じているという
「信心」さえあれば成仏はできますよ。という教えを説きました。
これが「浄土真宗」

この「浄土宗」と「浄土真宗」って似ていてごっちゃに
なるんだけどその違いを私なりに説明すると

法然の浄土宗が「私を救って下さい!」と念仏を口に出して唱える
念仏為本=ヘルプ・ミー・ブッダ!

であるのに対して

親鸞の浄土真宗は
南無阿弥陀仏を唱えようと思っただけで救われるという
信心為本=サンキュー・ブッダ!

ということでありんす。こりゃ確かに楽ちん(´∀`)



●栄西

かたや比叡山で天台宗を学び中国(宋)に留学しに行って
返って来た栄西は留学先の中国から初めて「茶」を
日本に持って返って来て流行らせた人としても知られています。
「喫茶養生記」という言うなれば「お茶で健康になろう」という
本を書いております。

宋で臨済宗黄竜派の伝授をうけインドにも留学に行き
様々な研究をして日本で天台宗と中国禅宗とインド仏教の
色んな良い要素をアレンジして「臨済宗」をオープンします。

教えの特徴としては、人間は生まれつき備わっている「仏性」
を修行(坐禅)によって見出し、日常の生活の中に自己の
宗教的人格を見出して行く事、そして労働(作務)を尊び
坐禅を重んじています。

浄土宗や浄土真宗に比べると比較的禅宗というのは
厳しいジャンルに当たるかも知れません。

●道元

栄西の弟子でブッダの境地に到達しようとする禅宗の
教えを更に発展させて行こうと「曹洞宗」を開いたのが
道元です。道元は臨済宗における坐禅を更に強調し
「只管打座」という念仏を唱えずひたすら坐禅という
ことを教えます。

臨済宗も曹洞宗も同じ坐禅なのですがざっくり言うと
坐禅しているときにやることが異なります。

臨済宗は例えば30分坐禅をしているときその30分間
1つのテーマを自分の中に設定して坐禅をしている間
そのことのみを掘り詰めて考えて行きます。もちろん
言葉は発しません。自分の中でひたすら考えるらしいです。

曹洞宗は逆に坐禅をしている間は何も考えません。
坐禅の間は「無」になることに努力するみたいっす。
以外とこれが難しいです。何も考えずに30分間坐禅する。
これはなかなか言う程簡単ではなく、その間にトイレ行きたい
とかお腹空いたとか考える事すらシャットアウトし「無」の
境地に到達するということを生活の中でクセをつけるという
ことですかね。



●日蓮

法然らや道元らと同じように末法思想を憂いて危機意識に
燃えていたのが日蓮でした。

日蓮もまた天台宗はじめ様々なお寺に修行にまわりましたが
鎌倉期になって「こんなにいっぱい宗派があるのはおかしいよ!」
と「法華経」こそが全てと言い
「南無妙法蓮華経」の題目を唱える事でみんな救われる
と説きました。

同時に念仏、禅など全てが「法華経」に帰すべきと仏教の
統一化のために「日蓮宗」を立ち上げました。

さらに「立正安国論」を説き個人の救済だけじゃなくて
社会、国家救済をすべきだよと強く主張し法然の説く浄土宗
や他宗派は全部間違いだと徹底的に非難しました。

勿論こんな原理主義的なこと言ってたらボコボコにされるのは
目に見えているわけで過激なヤツだと言う事で佐渡へすっ飛ば
されます。

日蓮は一生こんな感じの人でしたが日蓮宗自体は彼の死後
後継者争いから様々な分派に別れ、日蓮宗自体も開祖の時程
原理主義的な思想では無くなって行きます。
までもその後の派生した新興宗教なんかもそうだけど
ちょっと排他的なところはまだあるよね



●一遍

十三世紀も終わり頃になると、念仏を唱えながら鐘や太鼓を
叩いて踊り宗教的法悦にひたるというなんかどこかの
民族宗教みたいなことが流行り始めました。

もともとは平安時代に空也という坊さんが京都の街中で
民間布教のためにおこなった「鉢たたき念仏」が原型で
それが鎌倉時代になって「時宗」をたちあげた一遍が
「踊り念仏」として蘇らせたのです。
写真ですが見て下さい。完全にヴォーカリストで
口から念仏と言うヤッターマンばりの「びっくりどっきり仏」
が出まくりです!(`・ω・´)

端から見ればただのチンドン屋なんですが一遍の諸国遊行と
ともに当時の日本でとても流行りました。
まさにマツケンならぬイッペンサンバ!

一遍の教えは親鸞の教え方を更に突っ込んだとこにあり
かなり胡椒が効いています。

老若貴賤、信仰の有無に関わらず阿弥陀仏が全ての衆生を
救ってくれるというもので
「南無阿弥陀仏を唱えたり思ったりして成仏するのは
となえたオレじゃなくって阿弥陀仏そのものが往生するのだ」
というかなりギリギリの考え方を説きます。

一遍はまさに仏教界におけるストリートパフォーマーであり
「盆踊り」というのはここからルーツがあるという説もあります。



ちなみにこれら鎌倉仏教の指導者達は平仮名まじりの
わかりやすい文で、短い文章の中に教えの理念が
まとめられていました。

結局浄土宗にしろ禅宗にしろ踊り念仏にしろ
仏教を広めよう!という為に各々が考えた
「方法論」なので正解はありません。好みのを選べば
良いだけです。そのなかで貴族や豪族や武士から
一般大衆まで意識した仏教の営業スタイルというものが
当時はモノからヒトへと変化して行った時期でした。

そしてその名残は各宗派現在に至るまで残っています。

~つづく~



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