ものを投げないで下さい

家具仏具や音楽、仏教、政治生活などを取り扱う徒然日記

日本の宗教事情~後編~

2012-10-31 03:22:49 | 宗教
以前の記事で「蘇我物部抗争」と「伴天連追放令」について書きました。

今回は「廃仏毀釈」について書きますね(゜∀゜)

まず「廃仏毀釈」ってなんぞや~?と言いますと、

時代は明治時代になります。江戸時代は徳川将軍家による武士による「武家社会」でした。
長く続いた徳川将軍家もご存知のとおり、西郷さんや桂さんなど、ゲストで坂本さんとかも一応入れておこうか、そういった人達による「明治維新」によって倒れ、時代は天皇陛下を中心とする明治新政府になっていきます。

それまでと決定的に違うのは政治の最高決定権を天皇陛下が持つことになったということです。これは実質南北朝時代の後醍醐天皇以来のことで500年ぶりくらいのことです。

新政府は新しい時代の到来として太政官布告という明治政府からの法律を発行しましてですね。「神仏分離令」というものがありました。

神仏分離令とはなんですか?という話ですがようするに

「神仏習合を禁止、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別しようぜ!」

ということです。

実は明治時代以前にもローカルでこのルールは適用されてまして、岡山藩や水戸藩、淀藩など、あとは出雲大社なんかもこのルールを適用していました。

世界的に見れば

「別々の宗教なんだから区別するのは当たり前だろ(´・ω・`)」

っつ~なんか当たり前のことのような気がしますが、日本は神道と仏教がそれこそ聖徳太子のころから関わっている国家なので、一般大衆的には神道と仏教の区別ってのはなかなか曖昧で同居してるケースも多々ありました。

あるでしょ今でも、お寺と神社が何故か同じ敷地内にあるとか(゜∀゜)

しかし明治政府になって全国的に「神仏分離令」が発せられて日本は神道による鎮護国家になるんだ!という決意を国内にアピールしたわけですね(´∀`)

これらを明治政府が行った背景にはいくつかあります。

日本の歴史上ず~っとそうなんですが、権力者は仏教とは切っても切れない政治的な関係がありました。

白河法皇が「サイコロと坊主はマジで思い通りにならねえょ」と言ったのも有名ですが・・・

奈良時代には坊主と天皇が結びつき、道鏡っつーただの坊主が太政大臣になっちゃうし、平安時代は延暦寺(天台宗)と興福寺(法相宗)はヤクザ化してましたし、鎌倉時代に多くの宗派が確立されると、南北朝時代には後醍醐天皇には延暦寺が味方につき、足利家には臨済宗が味方について足利家が勝ったので臨済宗は大きな力を得ます。

応仁の乱までは臨済宗は足利幕府の後押しを受けて政治にあれこれ口を出します(その影響もあって東山文化があり、お茶や侘び寂び、華道という民間文化が生まれたというポジティブな見方もあるよ)

戦国時代になると織田信長がこの流れに豪腕を奮いますが、信長は自分に楯突く仏教徒を攻撃しましたが、自分に従順な仏教宗派は別に攻撃を加えてはいません。

秀吉を飛び越えて徳川幕府になると天海僧正や沢庵和尚など天台宗や臨済宗の僧侶も含め、かつて信長が打倒した浄土真宗本願寺さえも徳川は庇護して、仏教は徳川幕府を支える屋台骨のひとつとなっていきました。

このようないわゆる全く以て「政教分離」とはほど遠い流れの中で明治政府は仏教が政治に口を出すという流れを断ち切り分離させ、神道国家であることをアピールしたかったというのがあります。


しかし事態は思わぬ方向へ行きます。政府はそもそも仏教を政治から「分離」させたかっただけであり、仏教を「排斥」する気はありませんでした。



ところが民間の中で全国的に仏教寺院、僧侶に対する暴力的な排斥運動があちこちで勃発しました。

具体的な内容は以下(wikiより引用)

神仏習合の廃止、
仏像の神体としての使用禁止、
神社から仏教的要素の払拭など
祭神の決定、
寺院の廃合、
僧侶の神職への転向、
仏像・仏具の破壊、
仏事の禁止など

この騒ぎなかなか大変なもので、いくつか例をあげるとwiki先生の文を以下に掲載します。


(以下転載)

大阪住吉神社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年(明治6年)にほとんどが壊された。奈良興福寺の食堂は1875年(明治8年)に破壊される。出羽三山については、1874年(明治7年)以降に廃仏毀釈が始まる。

千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。

三重県では、伊勢神宮のお膝元という事もあり、激しい廃仏毀釈があり、その為、全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。

僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。

大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。

廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。

美濃国(岐阜県)の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。


(転載ココまで)


激しすぎますね:(;゛゜'ω゜'):


ま~ここまでなんで騒ぎがでっかくなったかっつ~と、それまでの仏教寺院ってのは結構大きな恩恵を受けていたんですね。

例で言うと「免税制度」

仏教寺院ってのはそれまで藩政の中で税金の搾取対象にならないんですね(全てではないですよ)税金の搾取対象にならないってことは寺がそこに色んなならず者をかくまって犯罪の温床になって儲けているケースが多々あった。ということです。具体的なことは後に書きます。

そして当時の寺ってのは土地がやたら大きいのです。これは神社もそうだったので明治政府はこれらの特権を制限すべく上知令を出しましてね。土地の没収を行ったり境内を除き寺や神社の領地が国に取り上げられたわけです。

こうして免税されていたところにあちこちからボコボコにされ、更に土地を没収されてと散々な目にあった寺はあちこちで荒廃していったわけ

もうひとつは「寺請制度」

前の記事でも書きましたが徳川幕府以降、日本ではキリシタンを徹底的に排しました。それは教理が云々以前に外患誘致を防ぐためというのは前にも説明しましたね。

それを民間レベルにも徹底させる為に全国で寺請証文を発行して下さいよ~というわけです。

寺請証文とはなんですか?というと要するに私はそのお寺の檀家ですよという証明書=キリシタンではないという証明書です。

それを発行出来るのはお寺だけなので、幕府はどこかの檀家になりなさいという命令(檀家制度)を民衆に出していますので、民衆は近所のどっかしらの菩提寺の檀家になって寺請証文を発行してもらうわけですね。

当時としてはこの寺請証文が住民票みたいな役割も担っていたので、そうなれば当然出てくるのが「汚職」ですね(´・ω・`)

これらの特権を与えられた寺には当然お金を積んで寺請証文を発行して下さいよ~という悪~い人が集まってくるわけです。


このような事情を色々抱えていて中には

寺=「ヤクザの溜まり場」みたいなところが数多く出来ていて民衆は本来ハッピーな往生を願い、お経を唱える為の寺が実は犯罪者のアジトになっていて酷い目に遭わされていたなんっつ~江戸時代のうっぷんが色々溜まっていたのかもしれないね。

こうした背景もあり全国で寺に対してもの凄い爆発的な民間騒動が起きてしまい収拾がつかなくなっていってしまいました。

聖徳太子のころから1200年余りの時を経て、仏教寺院は政府からそして民間からと徹底的に粛清されまして、各宗派はついに政治の世界から大きく後退して反省を余儀なくされたわけです。


そして時代は仏教の近代化に繋がっていきます。

これが3つ目、そして日本史上最後の宗教における悶着・・というかこれも教理が原因というか・・仏教寺院があちこちでデカい面し過ぎた報いといえばそれまでなんだけどね(;´∀`)



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