モノの見方ってのは一元的や二元的ではなく多面的に見ていこう!
なんっつ~話はよく聞くけどこれはなかなか実際出来ないものです(;´∀`)
例えばちょっとだけ私の仕事の話をすると、以前アンティーク家具の店員さんがお客さんから
「アンティークって言っても結局中古でしょ(´・ω・`)」
「どこの誰だか知らないのが触ったヤツとかイヤだわ(/ω\ )」
「新品みたいにきれいにしてちょうだい!('A`)」
「塗装がすぐ剥がれるのはイヤだからウレタン塗って欲しいんだけど」
と言われてしまうという営業上の悩みを聞いたことがあります。
これはお客さんのアンティークに対する見方が「古い」ということに対して、マイナスイメージが先行している一元的な考え方のケースですね~。
「アンティーク」においては100~200年くらいまでは実はまだ若い部類に入ります。一応アンティークと言えばアンティークですが、日本語で言うなら「骨董」ではなく「古民具」とでも言いましょうか~。
という時代の流れはさておき、古民具にしろ骨董にしろ、「現在それは作っていない」という付加価値はあります。
レプリカでとかは確かにありますが、木家具は木目に大きく左右され、100年前の素材の取り方は今の素材よりかなり贅沢な素材の取り方をしているので、
家具の場合は日本の場合特にそうですが、古い家具であればある程表面を奇麗にするということはおすすめしません。(お客さんの要望次第ですが)これは仏像でも仏壇でも建築でもある程度共通しています。
理由は二つあります。
「骨董としての価値の下落」
骨董のモノの見方はオリジナルの要素が残っているということが第一です。それを第三者に売るとかなった時に当然骨董目線で見る人においては、手直しを入れている以上価値は下がります。しかし忘れては行けないのはこれはこれで一元的な見方であるということです。
「侘び寂びの心」
日本では室町初期東山文化から禅宗の影響もありまして、時代が変わり変化していく様子をあるがままに受け入れ楽しむ心=「侘び寂び」を重んじる部分があります。
仏像が箔が剥げて重厚な木目模様が露出してもそのままにしてあり、構造部分以外はめったなことでは手直ししないのはこの為です。まぁこれはこれで一元的です。
勿論お客さんの中でそういうことはどうでも良くて、自分の好みにしたいということであれば私はそれに従いやるまでですが、一応経験上お客さんのやりたい仕様が部屋の風合いにあっているかどうか?とか意見はします。
これらは「古い」ということにプラスの価値を見いだす価値観の考え方ですが、このように単純に古いものに対しても「多面的な見方」というのが存在するわけですね。
ということでモノの見方ってのは一つではないというのは茶道でも「見立て」という考え方がありまして、大事にしていたティーカップの先っぽが割れちゃったら当然それはカップとしては使えませんね。
しかしコップとしてもうダメなら今度はお花を入れてみたらどうだろう?とかいう使い方で言えばそのコップはまだまだ現役です。
観音扉の蝶番が壊れてしまい箪笥が大変不具合があるというなら、勿論それを治して使うというのも可能ですが、観音扉を取っ払ってしまって飾り棚にしちゃうなんって使い方も出来ますよね。
サックスがゴミ捨て場に捨ててあって、とてもじゃないが使えるものじゃないけど、お店のオブジェにどうだろう!とかね
ちなみに私の卑近な例で言うと、先日コーヒー豆の入ってたであろう樽が捨ててありまして、持って帰って家でゴミ箱に使っています
(まぁでもそんなことばっかやってると捨てられない症候群になりそうだから、それもほどほどにね(;´∀`))
大事なのはモノをたくさん持ってることじゃなくて、どれだけモノを大切にするかってことだと思います。それがなんであれ(´∀`)
なんっつ~話はよく聞くけどこれはなかなか実際出来ないものです(;´∀`)
例えばちょっとだけ私の仕事の話をすると、以前アンティーク家具の店員さんがお客さんから
「アンティークって言っても結局中古でしょ(´・ω・`)」
「どこの誰だか知らないのが触ったヤツとかイヤだわ(/ω\ )」
「新品みたいにきれいにしてちょうだい!('A`)」
「塗装がすぐ剥がれるのはイヤだからウレタン塗って欲しいんだけど」
と言われてしまうという営業上の悩みを聞いたことがあります。
これはお客さんのアンティークに対する見方が「古い」ということに対して、マイナスイメージが先行している一元的な考え方のケースですね~。
「アンティーク」においては100~200年くらいまでは実はまだ若い部類に入ります。一応アンティークと言えばアンティークですが、日本語で言うなら「骨董」ではなく「古民具」とでも言いましょうか~。
という時代の流れはさておき、古民具にしろ骨董にしろ、「現在それは作っていない」という付加価値はあります。
レプリカでとかは確かにありますが、木家具は木目に大きく左右され、100年前の素材の取り方は今の素材よりかなり贅沢な素材の取り方をしているので、
家具の場合は日本の場合特にそうですが、古い家具であればある程表面を奇麗にするということはおすすめしません。(お客さんの要望次第ですが)これは仏像でも仏壇でも建築でもある程度共通しています。
理由は二つあります。
「骨董としての価値の下落」
骨董のモノの見方はオリジナルの要素が残っているということが第一です。それを第三者に売るとかなった時に当然骨董目線で見る人においては、手直しを入れている以上価値は下がります。しかし忘れては行けないのはこれはこれで一元的な見方であるということです。
「侘び寂びの心」
日本では室町初期東山文化から禅宗の影響もありまして、時代が変わり変化していく様子をあるがままに受け入れ楽しむ心=「侘び寂び」を重んじる部分があります。
仏像が箔が剥げて重厚な木目模様が露出してもそのままにしてあり、構造部分以外はめったなことでは手直ししないのはこの為です。まぁこれはこれで一元的です。
勿論お客さんの中でそういうことはどうでも良くて、自分の好みにしたいということであれば私はそれに従いやるまでですが、一応経験上お客さんのやりたい仕様が部屋の風合いにあっているかどうか?とか意見はします。
これらは「古い」ということにプラスの価値を見いだす価値観の考え方ですが、このように単純に古いものに対しても「多面的な見方」というのが存在するわけですね。
ということでモノの見方ってのは一つではないというのは茶道でも「見立て」という考え方がありまして、大事にしていたティーカップの先っぽが割れちゃったら当然それはカップとしては使えませんね。
しかしコップとしてもうダメなら今度はお花を入れてみたらどうだろう?とかいう使い方で言えばそのコップはまだまだ現役です。
観音扉の蝶番が壊れてしまい箪笥が大変不具合があるというなら、勿論それを治して使うというのも可能ですが、観音扉を取っ払ってしまって飾り棚にしちゃうなんって使い方も出来ますよね。
サックスがゴミ捨て場に捨ててあって、とてもじゃないが使えるものじゃないけど、お店のオブジェにどうだろう!とかね
ちなみに私の卑近な例で言うと、先日コーヒー豆の入ってたであろう樽が捨ててありまして、持って帰って家でゴミ箱に使っています
(まぁでもそんなことばっかやってると捨てられない症候群になりそうだから、それもほどほどにね(;´∀`))
大事なのはモノをたくさん持ってることじゃなくて、どれだけモノを大切にするかってことだと思います。それがなんであれ(´∀`)
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