日本の歴史上には3度程宗教を巡って悶着が起きています。ただいずれも大きなものかというと世界の中で言えば少なく国を2分する程の争いに発展したのはわずかです。
1度目の「物部氏と蘇我氏との争い」
発端は仏教の伝来でした。仏教がやってきた時に日本は大王を中心とした鎮護国家で国教は「神道」(というかこの時神道という
名前は無いが)
物部氏は仏教を邪教と見て神々が怒るという理由でこれを拒否、一方で蘇我氏はこれを積極的に受け入れるよう進言します。
後世なぜかあんだけ反対していた物部氏の館跡から仏像が見つかってるっつ~( ゜д゜ )とんだダブスタ具合なんか考えるとこの時の争いは「神道VS仏教」というよりあくまでそれは口実に過ぎず蘇我氏と物部氏が単純に仲が悪かったので、教理云々とは違った形の争いだと言うのが現代では通説のようで(;´∀`)
結果はご存知聖徳太子が蘇我氏についたことで物部氏は蘇我氏に敗北、日本は神仏習合国家の道を歩み始めます。
2度目は「伴天連(ばてれん)追放令」
これは秀吉が行ったものですね。当時秀吉の配下には高山右近もしかり、大名では大友宗麟や有馬晴信などキリシタン大名も大勢いました。
キリシタンにはそもそも秀吉は好意的だったんですがあるとき宣教師の一人に「九州を平定しなよ」と勧められます。
宣教師は自分の国家の国王からある命令を受けていました。
一言で言えば
「シナを領土にしたいからその軍事力として日本を利用したいんだよね」
ってなわけで秀吉にさっさと日本を統一してもらう必要がありました。しかし九州でもっとも邪魔だったのは島津家でした。なので宣教師は大友家、有馬家、大村家などの大名は秀吉が行動を起こした際に必ず味方させると言う約束をするわけですな。
結果コレは大成功、秀吉は九州平定に乗り出し、島津家はあっさり降参します。ただ秀吉はここで神社や仏閣をキリシタンが破壊行為をしている悲惨な光景を目の当たりにしてキリシタンに対して一抹の危機感を抱きます。
当時イエズス会は文化交流と言う名目で相手国に中にはいり浸透作戦で最期占領国植民地にするという形でメキシコやフィリピンを占領していたんで秀吉もそれに警戒したわけです。
キリシタン大名はつまり本国と連絡を取り合って日本をキリスト教の国にするという売国行為を行っていたというわけですな。
その顕著な例でどこの教科書も教えてくれませんが
「キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った」
という事実です。
アルメイダさんという宣教師さんがいるんですが、この人大変布教熱心だったんですが悪いこともやってました。
キリシタン大名に本国特性の自慢の火薬1樽を50人の娘と人身売買していたのです。
キリシタンの兵器欲しさに女を差し出したわけですな。
秀吉はポルトガルとスペインの宣教師は国家占領策という野望で来ていることを見抜いてしまったのでこの事実を突きつけ激怒したのですが、彼らが傲慢な態度を取ったのでこれらは外患だと判断してこれらを追放したわけです。
経済的にいえば日本の銀行や保険会社などを外資系ファンドなどに売りさばいてしまった竹中平蔵が=高山右近といったところでしょうか。とんだ売国奴さんですな(;´Д`)
秀吉が死んで家康の代になるとこれを利用して国家転覆をたくらんだのが伊達政宗です。政宗はその為の資金や根回しを、大久保長安経由で工面して、イスパニア本国に支倉常長を派遣してイスパニアに日本を攻めさせ自身は同時に内側から謀反を起こすつもりでした。しかしこれはバレて未遂で失敗、
家康は政宗を処断はしませんでしたが政宗にそそのかされた息子の忠輝を2度と会わせない罪を与え、大久保長安を処断、キリスト教の布教を一切禁じて、江戸期にキリシタンを徹底的に追い出します。これが二度目の宗教のゴタゴタ
いずれも政治的な理由がかなり大きく絡み、宗教教義のこととはだいぶ乖離した印象がありますね。では3度目の「廃仏毀釈」についてはまたのちほど
~続く~
もし面白いと思ったらポチっとよろしくです(´∀`)
1度目の「物部氏と蘇我氏との争い」
発端は仏教の伝来でした。仏教がやってきた時に日本は大王を中心とした鎮護国家で国教は「神道」(というかこの時神道という
名前は無いが)
物部氏は仏教を邪教と見て神々が怒るという理由でこれを拒否、一方で蘇我氏はこれを積極的に受け入れるよう進言します。
後世なぜかあんだけ反対していた物部氏の館跡から仏像が見つかってるっつ~( ゜д゜ )とんだダブスタ具合なんか考えるとこの時の争いは「神道VS仏教」というよりあくまでそれは口実に過ぎず蘇我氏と物部氏が単純に仲が悪かったので、教理云々とは違った形の争いだと言うのが現代では通説のようで(;´∀`)
結果はご存知聖徳太子が蘇我氏についたことで物部氏は蘇我氏に敗北、日本は神仏習合国家の道を歩み始めます。
2度目は「伴天連(ばてれん)追放令」
これは秀吉が行ったものですね。当時秀吉の配下には高山右近もしかり、大名では大友宗麟や有馬晴信などキリシタン大名も大勢いました。
キリシタンにはそもそも秀吉は好意的だったんですがあるとき宣教師の一人に「九州を平定しなよ」と勧められます。
宣教師は自分の国家の国王からある命令を受けていました。
一言で言えば
「シナを領土にしたいからその軍事力として日本を利用したいんだよね」
ってなわけで秀吉にさっさと日本を統一してもらう必要がありました。しかし九州でもっとも邪魔だったのは島津家でした。なので宣教師は大友家、有馬家、大村家などの大名は秀吉が行動を起こした際に必ず味方させると言う約束をするわけですな。
結果コレは大成功、秀吉は九州平定に乗り出し、島津家はあっさり降参します。ただ秀吉はここで神社や仏閣をキリシタンが破壊行為をしている悲惨な光景を目の当たりにしてキリシタンに対して一抹の危機感を抱きます。
当時イエズス会は文化交流と言う名目で相手国に中にはいり浸透作戦で最期占領国植民地にするという形でメキシコやフィリピンを占領していたんで秀吉もそれに警戒したわけです。
キリシタン大名はつまり本国と連絡を取り合って日本をキリスト教の国にするという売国行為を行っていたというわけですな。
その顕著な例でどこの教科書も教えてくれませんが
「キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った」
という事実です。
アルメイダさんという宣教師さんがいるんですが、この人大変布教熱心だったんですが悪いこともやってました。
キリシタン大名に本国特性の自慢の火薬1樽を50人の娘と人身売買していたのです。
キリシタンの兵器欲しさに女を差し出したわけですな。
秀吉はポルトガルとスペインの宣教師は国家占領策という野望で来ていることを見抜いてしまったのでこの事実を突きつけ激怒したのですが、彼らが傲慢な態度を取ったのでこれらは外患だと判断してこれらを追放したわけです。
経済的にいえば日本の銀行や保険会社などを外資系ファンドなどに売りさばいてしまった竹中平蔵が=高山右近といったところでしょうか。とんだ売国奴さんですな(;´Д`)
秀吉が死んで家康の代になるとこれを利用して国家転覆をたくらんだのが伊達政宗です。政宗はその為の資金や根回しを、大久保長安経由で工面して、イスパニア本国に支倉常長を派遣してイスパニアに日本を攻めさせ自身は同時に内側から謀反を起こすつもりでした。しかしこれはバレて未遂で失敗、
家康は政宗を処断はしませんでしたが政宗にそそのかされた息子の忠輝を2度と会わせない罪を与え、大久保長安を処断、キリスト教の布教を一切禁じて、江戸期にキリシタンを徹底的に追い出します。これが二度目の宗教のゴタゴタ
いずれも政治的な理由がかなり大きく絡み、宗教教義のこととはだいぶ乖離した印象がありますね。では3度目の「廃仏毀釈」についてはまたのちほど
~続く~
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