きまぐれ日記

高知県室戸市の地域情報と写真などの趣味の話。時々エッセイ風に。

アメリカ国歌

2009年01月22日 09時24分55秒 | 我思う

第四十四代アメリカの大統領に、オバマ氏が就任しました。

黒人がアメリカの大統領になったのは歴史的出来事です。

ちなみに、ジョン・タイターは、アメリカ初の女性大統領が誕生すると予言していたのですが、それはぎりぎりのところではずれました。 

大統領就任演説の内容は分からないのですが、大統領就任演説で、歴史的に有名なフレーズは、第三十五代アメリカ大統領のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)の “ask not what your country can do for you Ask what you can do for your country”だと思われます。 

JFKの就任演説は、YOU TUBEで見られます。

オバマ氏の大統領就任演説も20年、50年後に、歴史的な名演説だったと称えられるのでしょうか。 

言葉の意味は分からなくても、就任演説は何か未来に希望を持たせ、元気がでるような気がします。

元気が出るといえば、アメリカ国歌です。

アメリカ国歌は、野球とか、アメリカンフットボール、バスケットボールの試合前には、歌われます。

日本では、あまり国歌を聴く機会はありません。

サッカーとか、野球の試合くらいですが、小学生とか、中学生程度の年齢の少年少女が日本国歌をサッカーの試合の前に歌うということは、まずありません。

しかし、アメリカ国歌は小学生や、中学生でも歌います。

しかも、大人の有名な歌手が歌うよりもうまいです。










The Cactus Cuties sing The National Anthem Old Video




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ジオパークDVDビデオ

2009年01月07日 13時49分02秒 | 我思う

お正月三が日の観光地は昨年よりも、人出が多かったようです。

高知自動車道の交通量も増えていたようです。

実感としては、人出が多かったようには思えませんでした。

しかし、室戸岬に行ってみると、確かに観光客の姿は多くなっていたように思えます。

昨年から、平日にもかかわらず、観光バスの団体で、室戸岬とか、吉良川の町並みに訪れている観光客の姿を見かけることがありました。

バスでのツアーが増えているのでしょうか。

景気は底が見えないような状況ですが、観光客が増加するのではないかと期待します。

室戸地域が『ジオパーク』に認定されたことは観光客誘致に大きな追い風となったと思います。

1月4日のさんさんテレビの放送でも、室戸地域が『ジオパーク』に認定されたとのレポートもありました。

しかし、ジオパークに認定されたからといって、ただ喜んでいるのではなくて、ジオパークをPRする活動を積極的にすすめていく必要があります。

県内でも、他の場所がジオパーク認定にむけて活動しています。

観光地といえども、常に、競争意識と向上心をもって、積極的に、PRを展開する必要があります。

国内の山陰地域は、『室戸ジオパーク』よりは、一歩先に進んでいます。

室戸ジオパークとしては、まず、室戸ジオパークのロゴマークを作る必要があります。これは、公募で決めるといいと思います。

さらに、『室戸ジオパーク』を紹介する観光DVDビデオの制作をするべきでしょう。

ジオパークは地質だけではなくて、その地域の文化、人々の暮らし、特産品なども含まれるので、ジオパークのPRは、まるごと室戸市のPRと考えていいと思います。

ジオパークDVDは、観光パンフレットに添えつけして、観光協会とか、『とろむ』、『キラメッセ』などで無料で配布します。

おそらく、DVD付きの観光パンフレットは県内ではなかったと思います。

ジオパークDVDは、空港、駅、そして、とろむに乗り入れている高速バスなどで、モニターに流すこともできると思います。

ジオパークDVDはいろいろと利用価値があると思います。



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ボランティアガイドはサークルで

2008年11月17日 12時47分03秒 | 我思う

今朝の高知新聞に、“室戸ジオパーク”の特集記事が掲載されていました。

ガイドをされているのが、高校の教諭の方ということです。

そういう先生がいるのなら、話は早いです。

室戸ジオパークのボランティアガイドは、高校生にお願いしたいものです。

高校で、『観光研究サークル』でも立ち上げでもらって、サークル単位でボランティアガイドをすればいいわけです。

室戸ジオパークのPR活動はほとんどしていないので、せめて、ボランティアガイドは予算がほとんどかからないので、早急に実行するべきです。

多くの観光客は、地質に関する専門的知識は持っていないので、大学の教授のガイドのような、あまりにも専門的な知識を披露するようなガイドは、観光客が理解できなくて、退屈してしまうので、観光客が分かりやすいように、学術的な部分は簡潔に説明してユーモアを交えながらのガイドが望ましいと思います。

室戸岬の『乱礁遊歩道』は東西に長いので、ガイドをしながら歩くとなると、40分ほどかかると思われます。

ガイドのコースを西側と東側に分けるという方法もあります。

乱礁遊歩道沿いにガイドをするとなると、地質のことだけではなくて、当然、空海、紀貫之、おさごさん、さらには、“お馬さん”のことも少しは説明する必要があると思います。

さらには、『ビシャゴ岩』の名前の由来なども説明する必要もあると思われます。

観光客の方は、ポイントポイントで記念撮影もするでしょうから、その撮影のポイントの説明も必要になります。

たとえば、『エボシ岩』は、まさに、烏帽子の形をした岩ですから、烏帽子岩が頭に乗るような感じに撮ると、とても面白い絵になります。 

室戸岬には、多くの奇岩があるのですが、名称がついているのは、『ビシャゴ岩』と、『エボシ岩』、『天狗岩』だけです。

あと少なくとも、二つは名称をつけるべき岩が、灌頂が浜にはあります。

岩の案内板を設置するということですから、その時に、岩の名称も考えてはどうでしょう。

案内板は、できることなら、日本語と、最低、英語の説明が必要です。

海外、とくに、アジアからの観光客を誘致するためには、中国語、韓国語の表記も必要です。 


とにかく、高校生に『観光研究会』のサークルを結成してもらってボランティアガイドを早急に行うべきです。





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人工ブラックホールはできるのか

2008年09月11日 13時05分39秒 | 我思う
高知新聞の今日の朝刊に、大きく記事が掲載されていました。

欧州合同原子核研究所(CERN)が世界最大の加速器を始動させました。

強力な超伝導磁石が作り出す磁場で陽子を軌道に沿って曲げながらほぼ高速まで加速して、陽子同士を衝突させて、ビッグバンから一兆分の一秒後の状態を再現するということです。

その結果、人工的なブラックホールが出現する可能性があるということです。

もし、ブラックホールが出現した場合、地球が、ブラックホールに呑みこまれてしまうのではないかということを言っている科学者の方もいるのですが、果たして、どうなるのでしょうか。

もし、ブラックホールが出現した場合、この実験が、タイムマシーンの実現の第一歩となるはずです。 

ジョンタイター、が言うところでは、“CERN”が、2034年に、タイムマシーン第一号機を製造するということです。 

“CERN”の今回の実験結果が、どうなるのか、今後は注目するべきでしょう。





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ふたつの個性

2008年09月07日 13時27分56秒 | 我思う
『竜馬がゆく』はやっと、第6巻目を読み始めました。この巻で、やっと慎太郎が活躍するシーンが出できます。

時は、慶応元年(1865年)5月に、慎太郎と、龍馬は、長州で出会います。

この年は、『薩長同盟』の前年になります。

すでに、この時は、龍馬は、薩摩で、慎太郎は、京都で薩長同盟のための根回し活動をしています。

『竜馬がゆく』によると、龍馬も慎太郎も2人が、ほとんど同じ時期に薩長同盟の画策をしていたことは知りませんでした。

龍馬は、薩摩で、薩長同盟へむけて西郷隆盛の同意を得て、その足で、薩摩の意を伝えに長州の桂小五郎に会いにいきます。

そこに、京都より戻った慎太郎が現れるわけです。

天に意思があるかのように、長州にて、二人の両雄は出会うわけです。

慎太郎は、薩摩の西郷隆盛を迎えに、薩摩に向かいます。

事がすんなりと、うまく運べば、1865年5月が薩長同盟の締結された時として、歴史に刻まれたはずです。

ところが、長州が目前になった時、西郷隆盛は意を翻して、長州には立ち寄らずに京に向かったわけです。

この時の慎太郎と、西郷を待っていた桂小五郎の落胆はいかばかりだったでしょうか。

慎太郎は、切腹するくらいの心境だったと思われます。

しかし、龍馬は、さほど落胆することはなかったのです。

龍馬には秘策があったのです。

龍馬と慎太郎の個性というものは、全く正反対のようでした。

この二つの傑出した個性の共同作業によって、誰もが不可能と思っていた、『薩長同盟』が締結されるわけです。

『竜馬がゆく』では、ほぼ同時期に慎太郎と龍馬が薩長同盟に向けて動き出します。

しかし、お互いの目的にむけてのアプローチの仕方は違います。

まるで、時系的に、シンクロするような2人の行動の背後には、神に意思があったかのようにも思われます。

もし、慎太郎と龍馬が似たような個性であれば、『薩長同盟』は締結されなかったかも知れません。

慎太郎は理詰めで相手を説得し、龍馬は相手の感情に訴えかけ、相手の懐に入り込み説得します。

この2人の相反する個性がうまくかみ合って、ハイブリッド的に、さらに大きなエネルギーとなって、『薩長同盟』は締結されたのだと思います。

傑出した二つの個性は、強固な縁で結ばれていて、1867年11月15に京都近江屋で刺客に襲われ、死ぬ時まで、2人いっしょでした。




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雄藩とは

2008年08月18日 14時00分29秒 | 我思う

『竜馬がゆく』はやっと、4冊目を読み終えようとしています。ほんとに長い物語です。

幕末の、土佐藩関係以外の他の藩士の人物も登場してくるので、その人物がどういう人物なのか、ある程度の知識がないと理解しにくいのですが、土佐藩士に関しては、なるほど、そういう人物だったのかと思いながら読んでいます。

しかし、これらの登場人物のキャラクターは、作者の目を通した人物のキャラクターですから、実際にどういう人物だったのかは分かりません。 

幕末の雄藩といえば、薩摩、長州、土佐ということになっていますが、ふと疑問に思います。

薩摩、長州、土佐にしても、現在でさえ、地方の都市であって、有力な県のようには思われません。中央政府からは距離的にも離れているのに、なぜ、雄藩と言われていたのでしょうか。

高知県は、そのほとんどが、森林で、ほぼ、県の面積の90パーセントが森林で覆われています。平野部が少ないということは、米を栽培する面積は少なかったはずです。

土佐藩の石高は24万石と言われていますが、実際はもう少し少なかったようです。では、24万石というのは、全国では石高ランキングではどのあたりにあったのかというと、けっこう上位にあったようです。

土佐藩は、新田の開発にも力を入れていて、廃藩置県が施行された頃には40万石は超えていたとも言われています。

石高が高いことは、藩の財政のバロメーターにはなりますが、石高だけでは、雄藩とはなりません。

米以外に土佐藩に豊富にあったのは、木材です。

木材からは、『土佐和紙』も作られ、木材を伐採し、新田を開発するために、『土佐刃物』が発展してきました。

木材は、主に、大阪方面に持ち込まれました。土佐の木材とか、薪は質がよかったので、ほとんど、関西方面での市場を独占していたようです。

もちろん、土佐は海からの産物もあったわけで、『鰹節』も大阪を中心として売られていました。

大正から昭和初期にかけては、木炭(土佐備長炭)が関西方面に出荷されて、そのおかげで吉良川の町は栄えて、『吉良川の町並み』の中にはいくつも白壁の蔵が建っているというわけです。

土佐藩は、豊富にあった、森林資源で潤ったというわけです。



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龍馬の背丈

2008年07月28日 12時37分53秒 | 我思う
雑誌、『サライ』の最新号が【龍馬を旅する】として、龍馬の特集をしています。

龍馬に関して、ある程度の知識があれば、読んでみて、なるほどと思われこともあるだろうと思います。

また、龍馬に関しては、ほとんど知識のない方にとっては、龍馬に興味をもつきっかけになると思います。

時系列的に、龍馬がどこを旅していたのかは、この雑誌を読めば、だいたいのところが理解できると思います。

船と、徒歩という、交通手段の少ない時代に龍馬はあちこちと旅をしています。 雑誌の表紙は、見慣れた龍馬の写真になっていますが、この画像がなかなかきれいです。

これほど鮮明な龍馬の写真は、初めて見ました。

この写真から判断すると、龍馬はかなり長身のように思えます。

実際にどれだけの背丈だったのか、この写真から、推測してみます。

龍馬の額の髪の生え際から顎の先までをひとつの単位として、龍馬の身長を測ってみると、だいたい7頭身ほどです。

1頭身を25センチと考えると、7頭身ということで、単純に計算すると、175センチということになります。

1頭身を26センチで計算すると、182センチということになります。あまりにも、単純な計算の仕方ですが、幕末の当時としては、かなりの大男だったことは間違いないようです。

龍馬に比べると慎太郎は小柄だったようで、だいだい、155センチから158センチ程度だったということです。

龍馬は見た目の迫力はかなりあったのではないかと思われます。

大柄で、北辰一刀流の免許皆伝の腕があれば、押しの強さは交渉人としは有利だったことと思います。



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慎太郎と龍馬の初めての出会い

2008年07月27日 21時35分11秒 | 我思う

『竜馬がゆく』は現在、やっと第2巻まで読みました。

このペースでいくと、月に2冊は読めるということです。あと6巻を読み終えるのは、10月ということになりそうです。

近頃、これほど集中的に読書をしたことはありません。

『竜馬がゆく』はあくまで小説であって、どこまで、史実に忠実なのか分かりません。

『竜馬が行く』を読んでいて、ふと疑問に思ったことは、薩長同盟を締結させ、そして、最期は、1867年の11月15日に同時に暗殺された盟友の慎太郎と龍馬は深い縁があったはずで、いつどこで、初めて出会ったのだろうかということです。

龍馬・慎太郎の年表を見ても、龍馬と慎太郎が初めて出会った年と場所は書かれてなくて、年表から見ると、薩長同盟が締結された1866年の前年の1865の5月に、西郷隆盛と桂小五郎の会談の画策が流れた時には、間違いなく、慎太郎は、下関で龍馬に会っています。

常識的に考えて、薩長同盟の前年に初めて、龍馬と慎太郎が会ったとは考えられません。

では、実際のところはどうなのでしょうか。

そのことを知るための情報がネット上でないものかと検索したのですが、情報を入手することはできませんでした。

龍馬と慎太郎の初めての出会いということは、歴史的には、あまり重要な意味がないことかも知れないのですが、2人の縁の深さを考えると、どうしても知りたくなりました。

そこで、龍馬に関しては、膨大な情報量を持っている『県立坂本龍馬記念館』にメールで問い合わせました。(以前も薩長同盟の締結の場所に関して問い合わせたことがあります。)

そうすると、即日にメールで返事がきました。

さすがに、龍馬記念館です。龍馬に関することはきちんと答えてくれます。 

常識的に考えると、『土佐勤王党』に、龍馬、慎太郎が参加した頃には、2人は初めて出会っているはずだというのが、龍馬記念館からの回答です。

慎太郎24才、龍馬27才の時です。

それ以外の可能性としては、二つあるという回答でした。

まず、龍馬の一番上の姉千鶴の夫、高松順蔵を通じた出会いです。

順蔵は土佐藩東部の安田村(現安田町)に住んでいました。

龍馬は順蔵の家を頻繁に訪れており、土佐藩を出てからの手紙にもよく「順蔵さん」の名前が登場しているということです。

東部の若者の多くは、順蔵を慕い教えを受けていたので、慎太郎が訪ねた可能性は大いにあります。 

もう一人、慎太郎の先生である間崎滄浪(間崎哲馬)を通じた出会いも考えられるということです。

慎太郎は15歳の時に、田野(現在の田野町)へ来ていた間崎に師事していました。

龍馬がいつ間崎と出会ったかが分からないのですが、もし早くから知っていたとすれば、可能性はあるかも知れないということです。 

龍馬は出会いの達人だったわけですが、人と人の出会いは、偶然ではなくて、必然であって、何かの縁があって出会っているのだとも考えられます。

人生の最期を共にした龍馬と慎太郎は深い縁で繋がっていていたはずです。

人と人の出会いは、その後の人生にいい結果ばかりをもたらすわけではないのですが、良くても、悪くても、人と人の出会いは、縁によって結ばれていると考えていいのではないかと思います。



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物より言葉

2008年06月15日 17時14分16秒 | 我思う

週間予報では、来週の水曜日頃までは、雨は降らないということでしたが、予報ははずれて、『父の日』の日曜日は雨になりました。

『父の日』は、『母の日』よりも一般的な認知度は低いのですが、父の日に贈り物をする方も多いと思います。

何かの記念日に贈り物をするという習慣は、日本ではいつ頃から始まったのでしょうか。

記念日に贈り物をするという習慣は、明治時代頃からではないかと思うのですがはっきりとは分かりません。

プレゼントというと、西洋の習慣のようにも思えるのですが、ふつうに『贈り物』というふうに考えると、日本には、かなり古くから、贈り物の習慣はあるようです。

お中元、御歳暮は、贈り物の習慣です。

どこかのお宅に訪問する場合は、手土産を持っていきます。これも贈り物の習慣です。

こういうものは、すべて、他人の間のことで、明治時代以前の日本では、家族の間で、贈り物の習慣はあったのでしょうか。

家族間で贈り物のやりとりをすると、なんとなく他人行儀のような気がします。

ですから、心のこもった言葉が、物よりも、はるかに嬉しいはずです。

父の日には、『お父さんありがとう』と言ってみましょう。

ただ、それだけです。





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川田亜子さんに何が・・・・・

2008年06月04日 12時31分57秒 | 我思う
実際に、川田亜子さんがテレビに出ている場面を見たことがなくて、どういう人なのかということは全く分かりませんでした。

正直なところ、ニュースをネット上で見るまでは、その存在さえ、知りませんでした。

人気アナウンサーの自殺というニースは、各方面に衝撃を与えているようです。

美人で才能もある方が自ら死を選ぶということの原因が全く見当がつきません。

ふつうに考えれば、羨望の的であるアナウンサーという職に就くだけで、選ばれた人であるわけで、それだけで幸せだろうと思うのですが、本人はそうではなかったようです。 

まず、川田亜子さんのことを知ることから、何が彼女をそうさせたのか、探ってみます。

情報はネット上から収集します。彼女は多くのテレビ番組に出演していた人気アナウンサーなので、実際に、彼女が出演していた番組を見れば、彼女がどういう人だったのか分かるはずです。

“You Tube”で川田亜子さん関連の動画をいくつか見ました。

バライティーなどの情報番組を中心に出演していたようです。

そんな番組の中で、彼女が号泣してしまう動画がありました。

細木数子さんの番組ですが、この番組は実際には見ていないので、内容は、はっきりとは分かりません。

番組は、2006年10月3日に放送された人気番組「ズバリ言うわよ!」の拡大版「炎の4時間メッタ斬りSP」。

TBS系の全国の放送局の女性アナ33人がさまざまなアンケートに答え、細木さんから人生訓を授かるという企画です。

数年前から、川田亜子さんは、悩みを抱えていて、それを細木数子さんは見抜いていて、ある意味、川田亜子さんの未来を予言しているようにも思えます。

この番組がきっかけになったのかどうかは分からないのですが、この番組の放送の翌年の2007年4月にTBSを退社して、フリーアナウンサーになっています。

これです。

http://jp.youtube.com/watch?v=fU_B0WdSzCY&feature=related


この番組の川田さんの涙に、彼女の苦悩が現れているように思えます。

理想と現実のギャップに彼女は悩んでいたのでしょうか。

彼女は、報道関連の仕事がしたかったのに、実際の仕事は、バライティーだった。でも、バライティーに出演している彼女の動画を見る限りでは、彼女はとても明るくて、楽しそうにいっしょうけんめい仕事をしているように見えました。

でも、やりたくないことをいっしょうけんめいすればするほど、彼女の精神は不安定になっていったのではないでしょうか。

たいへん、理知的で、律儀で、ある意味完璧主義者だった彼女は、与えられた仕事をいっしょうけんめいしていた。

そして、いっしょうけんめいすればするほど、彼女は、精神的に、追い詰められていったのではないでしょうか。

自分がやりたいことができないという状況で、どんどんストレスは溜まっていく。

でも、律儀な彼女は、そんな自分の精神的ストレスを表面に出さないようにしていた。

誰か、そばに、頼れる人がいれば、最悪の決断をすることはなかったと思います。


唯一、ブログで自分の気持ちを少しだけ書いていました。

ブログでも、メールでもいいですが、自分の気持ちを伝える手段があれば、ほんのわずかでも、救いはあるはずです。

最悪の事態が起こる前には、必ず、何かのサインがあるはずです。まわりにいる人がそのことに早く気づいて、手を差し伸べるべきです。 

川田亜子さんが最後に出演した番組が自殺を特集したものでした。その番組が引き金になったのでしょうか。

人は、タフでなければ生きていけないものです。




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