人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

いつの間にか 素直になって自然になってゆく

2012-04-25 09:48:31 | スピリチュアル
我人とともに祈りをささぐ
っていう
言葉がありますが
実際祈りというものは
大きな大きな
広大な世界の中に
入ってゆくようなものです

最初は
一人祈り出す
ところが
祈ってゆくうちに
一人じゃないということに
気付いてくる
みなさんの
守護霊さんや
守護神さんやね
あらゆる天地の
神霊達が
祈りのなかに
とけこんでくる
世界人類が平和でありますように
っていう祈りは
そういう祈りなんです

自分というものが一つもない
みなさんの思いを
抱きとりはしますよ
けれど
そのおもいを
そうかよしよしと
抱きとってね
もっと
光のある方へ
もっと
愛のある世界へ
世界人類という
大きな大きな
とてつもなく大きな
流れのなかに
入れてしまう
とたんに
みなさんは
世界人類になるんです
世界人類という
大きな流れのね
みなさんは
一滴の
水なんですよ
そして
この水は
流れは
神様に
ずっと
つづいてゆくんです

祈りというのはね
何も世界平和の祈りばかりじゃない
南無阿弥陀仏でも
主の祈りでも
アラーでもですね
それはみんな
この
神様の流れのなかに
とけこんで
一つになって
神様の愛と一体になる
ということの
あかしなんです
かがやく
いのちを
宣り出すんですからね
で、こうした
祈りの中でも
一番
世界平和の祈りというのが
光にみちている
なぜなら
この祈りのなかには
人類共通の願い
世界人類が平和でありますように
という願いがね
悲願が結集しているわけですよ

我々
現在今生きてる人間だけじゃない
人と生まれた以上
誰もが持つ
願い祈りが
このなかには入っている
このなかには
みなさんの先祖のおもい
ねがい、祈りね
そうして
世界人類ったって
この地球だけじゃない
宇宙の星々の
兄弟たちが
宇宙人類たちが
みんな
世界人類が平和でありますようにって
祈っている
こんなにやさしい
子どもでも唱えられる
祈り言のなかに
みんなが
参加してるんです

これまで
地球を何とかしようと思って
苦労した
釈迦や
キリストや
日蓮や
聖者達が
この祈りを
みなさんが唱える時には
一緒にきて
唱えている

祈りというのは
一人でするようでいて
決してだから
一人のもんじゃない
わたくしは
最初に
我人ともに
っていいましたけれど
本当に
我人ともに
なんです

この肉体界にいて
働いている我々と
もう肉体を
脱いでしまって
それぞれの
霊界の修行場
天地にいる霊人たちと
それから
すぐれた宇宙の兄弟たちと
霊肉ともに
一つになって
祈っている
そうして
それぞれが
本源の神のいのち
本心の光を
かがやかせることに
よろこびを感じて
益々
神様に
ありがとうございます
という
感謝のおもいを
届かせてゆく
世界平和の祈りというのは
そういう祈りです

いつの間にか
心があらわれて
子どものように
素直になって
自然になってゆくんです
とにかく素直になってゆく
神様の前に
裸でたって
さあいつでも私のいのちを
お使い下さい
っていえるように
なるんです
自分がなるんじゃない
神様がさせて下さるんです

神様は
それぞれの
働きの場所を
ようく御存知です
世界人類が平和でありますように
という祈りを
かさねてゆきましょう
大調和の祈りのなかに
自分のいのちを
とけこませて
参りましょう
           昭和62年3月6日 朝

人間というのは 祈りのかたまりです

2012-04-24 10:36:09 | スピリチュアル
祈りというものを
忘れた宗教
それは
もはや
宗教ではありません

祈りというのは
どういうことかと
いいますと
神と人との
和合なのです
もともと一つであった
分かれている(ホントは分かれちゃ
いないんだけれども)いのちが
お互いを確認して
抱き合う
抱き合うのは親と子
つまり
神様と我々人間です
それが
祈りなんです

だからといってね
神様も
人間も
ずーっと別々に離れていた
なんて考えちゃあ
それは間違いなんですよ
とんでもない間違い
神様は離れちゃいないのね
ずっと手を差しのべたまんまですよ
ずっとこう
手を広げてね
大きく広げて
さあいつでも
おいで 
抱いてあげると
スタンバイしてる
それが神様なんですよね
ところが
私がいつも言いますように
この波動の粗い
肉体界におりてきて
肉体をまとってね
くらしてくうちに
人間は、霊じゃなくて
肉が自分の主人だと思っちゃった
そうして
この肉体が三千世界だと
おもっちゃったんですね
だから
この肉体がなくなったら
自分はどこに行くんだろうと
思っちゃってね
もう、不安で不安でしょうがない
そういう状態で
ずっと来たわけですよね

本当は
我々のいのちは
神様からきていて
我々が神様を
忘れ果ててる時でも
神様の方では
ちゃんと一人一人を
見守ってね
だからこうして
我々は
生きてられるんだけども
肉体だけと思っちゃった
人間は
そこに神様が
いるなんて思えなくなって
しまったんですよね
それでも
うんと苦しい時に
神様仏様
助けて下さいってよく言いますよね
苦しい時の神頼みね
あれは
神様なんてないと
この想念で思っていましても
私どもの
奥の奥のからだは
神様によって
生かされている
ということを
知ってるわけでして
それで
いよいよ苦しい時には
命の親である
神様をよぶと
こういうわけですよね
必死の思いでよびかける

ところが
祈りというものは
もっと自然な
もっと平安にみちたものでしてね
私と神様との
私と本心の光との
対話ですからね
もうこれは
本来平和の光にみちているわけです

じゃあ、必死のおもいで
神様!ってよぶ
その心はどうなるのかというと
これも
絶対に無駄にはならないんです
なぜかといいますとね
いいですか
人間というのは
先ず
神の光によって生まれたもの
神によって
いのちを吹き込まれた存在です
ですから
どんなになっても
おおもとを忘れかけて
苦しくなった時には
神様をよぶように出来ている
呼ばなきゃ
生きてゆけない
自分がどこからきて
どこへこの生命が
流れてゆくのか
ということをですね
確かめないと
一瞬も
安心出来ない
そういう存在なんですよ
だから
そのおおもとが
ぐらついた時には
神様ってよぶ
よばなきゃいられないんです
それで
自分というものは
どういうものなんだという
ことを
みんなの奥の心が
確かめて
それで
生きてゆけるんです

私はいつも
世界平和の祈りは
エレベーターだといってますけど
こうやって
神様って
呼んだ時には
その人は
祈りというエレベーターの中に
緊急避難したようなもんなんです
そこから
あらためて
神様のこと
自分を生かしている生命のこと
なんかを考えてく
それで
ずっとおちついてくると
その人なりの祈りが
口をついて出てくるんです
ですからね
神様助けて下さい!!って
いった時には
もうその人は
神様というチャンネルを
ひねって
実は神様のなかに入ってるんです

祈るということは
神様と一緒だ
いつも一緒だと思うこと
同行二人ですよね
けれど
そう思うためには
神様というチャンネルを
ひねらなきゃ
何にもなりませんでしょう
アンテナを神様に合わせないとね
そこから祈りは
深くなってゆくんです

先ず
神様というアンテナ
に合わせること
スイッチをひねって
チャンネルを
合わせて
すべては
そこから始まるんです
ですから
苦しい時の神頼みというのを
私はちっとも 
軽べつしません

神様というのはね
何とかして
人間を
抱きとろう抱きとろうと
あらゆるチャンスをつくって 
待って下さってるんです
だから
神様助けて下さい
うちの会だと
守護霊さん
守護神さん
助けて下さい
それも大変な時は
五井先生
お願いします
ですよね
そうすると
どうなるかというと
私という空っぽのからだをとおしてね
私をよんだ人にですね
神様の愛念がパーッと行くわけですよ
瞬間にゆくわけ
それは
とっても
はやいんです
呼んだ瞬間に
こっちにすりゃあ
呼ばれた瞬間に
その人を
光で愛でおおっている
神様が愛で抱きとってるんです
すごいですよ
神様の愛というのはね
それでもって
さあおちついたかい
それじゃあ
あなたの知ってる祈りを
やってごらんと
こうなるわけですよ

人間というものは
一たん
愛で抱きとられて
激しくないて
訴えて
おちついてくると
今度は
神様との
会話を
始めるんです
それが祈りです
会話してゆく内に
段々
我がうすれてきて
ただ
神様と話すことが
嬉しくなって
そのうちに
我というものがなくなっちゃって
ただもう
神様神様と
おもっちゃう
こうなると
その人は
どこもかしこも
光ってるんです
光でいっぱいになっている
そうして
元々の人間の本来
神の光明体
光のからだを
あらわしてゆくんです
もうその頃になると
自分で光ろうなんて
思ってない
光ってるとも思わない
ただ
神様と話すのが
嬉しくて
嬉しくて
しようがない
自分というものが
なくなっちゃってるんです
自分というものを忘れてる
ねっ
それでもってただ嬉しいわけ
その嬉しいというのは
あなた方の本心が
あなたをつくってる
元々が嬉しがるわけですよ

こうやって
祈りっていうのは
どこまでも
どこまでも
自分を昇華して
澄み清めて
すきとおった
純な心になって
遂に光そのものになるまで
つづいてゆくんです
ね、
人間っていうのは
いつでも祈ってんですよ
みんな気付かないけれど
絶えず祈っている
十五分 
統一して
これで今日のお祈りはおわり
なんてそんな
ちゃちなものじゃないんです
もう
どんな時でも
祈っている
祈りつづけている
全身全霊
未来永劫
人間というのは
祈りのかたまりです
その祈りは
神様とともにあるというよろこび
自(おの)ずから
自分の光に
気付いてゆくよろこび
自分のいのちが
光っていることに気付くよろこび
これなんです

あなた方が祈る時
そこは光になります
なぜならみんな
神様の子ども光の子
だからです
祈りは光、光そのものなのです

     昭和62年3月5日

祈りについて 序

2012-04-23 10:56:54 | スピリチュアル
 祈りというものは、一人で祈っているように
思ってしまいがちなものであるが、実は
すべての天地の霊人とともに祈っているのである。
 本心の光との握手。これこそが、祈りの最大目的
であるが、祈りは、ささげる内に、おのずと神への
感謝が、光となってみちてゆくものである。
 本巻では、こうした祈りについて、私の思いを
述べてみた。
          昭和62年3月5日
             五井 昌久

昌美先生の ご修行について

2012-04-22 10:32:50 | スピリチュアル
 (問)昌美先生の今の御神行ですが、その
大変さは神様以外に判っている人はいない
と思いますが、お話していただけますか。


 (答)説明しろというんですか。出来るところ
までしましょう。全部は言えませんがね。結局
何が大事かと言えば、要するに人間というものは皆
枠をもって生きている訳なんです。枠がいいとか
悪いとかでなく、枠を持たなければ
生きられないんですね。
 例えば、自分の家庭というものは大事だし、 
家庭をはみだしたくないし、自分の職場という
ものは大事だし、これをやっぱりはみ出したくない
と皆思って、それを大事にして生きているんです。
 で、それがいつの間にか枠になって、他の世界は
知らないという寂しさになって行く訳だけども。

 昌美が今やっている事というのは、そういう
小さな枠でもですけれど、いわゆる地球人類が
等しく持っている、全部の色んな枠を取っ払ってね、
そして生命が朗らかになって自由自在身になった
時には、本当に霊そのもの人そのものになって、
全く肉体の想いというもの肉体そのものを越えて、
色んな世界に常に出入り出来るという、
そこのところを今修行している訳なんですね。
 だから、あの人は今ほとんど食物を食べてない
筈なんですよ。人間の食物はあまり入らない筈
なんですよ。必要最小限しか入らない筈
なんですよね。それでもって6時間祈るというのは
何を祈るかというのは、もちろん世界人類が
平和でありますようにと祈りますけれども、人間
というのは空間的に言えば三次元に生きている
訳ですね。三次元と言えば何かというと、
やさしく言えば、この地球に人類が住んで
いるけれども、他の所にはこんな空間は全然無い、
そんな世界は無いという風に枠で囲ってしまって
いるのが三次元なんですよね。目に見えるもの
触れるものね。それだけが自分の世界だと思って
生きている、それが三次元なんですね。ところが、
4次元も5次元も6次元も10何次元も
ありましてね。空飛ぶ円盤なんていうのは、
そういう優れた宇宙人達の心の波で、本当に
澄み極まった波で動いている。向こうの科学は
そういう心の波で作られる。そういうものなんです。
 本当に純粋な純白なものなんですよ。

 で、そこまで我々が本当に平和に生命を完う
してね、この地上の生命を完うして、更に死ぬ事を
恐れないで、次の世界へ又自分の生命を続かせて
行こうと思えば、自分の中に澄み極まる想いがあり、
それが全部動かして行くんだというところまで
きちっと信じきっていかないと、そういう風に
降ろしていかないと平和にならないんですよね。
 それには自分が自由自在身になる事が必要
なんですけれども、じゃあ誰でもなれるかと
いったら、今3次元の枠を全部踏み越えてなろう
といえば、もうこれは命がけなんですよ。
 世界平和の祈りをもってしても尚かつ命がけ
なんです。そこのところを神様の方で選んでね、
昌美が自由自在身になる為の命がけの役を本当に
やっている訳ですよね。ですから、瞬間瞬間
これが臨終かしらという想い、恐怖の想いも
あるだろうし、頑張りたい帰りたいという想いも
あるだろうし、色々な想いがあると思いますよ。
 その人間の想いを全部味わって越えて、
そこから、宇宙に生きる人類の偉大な心と身体
というものを獲得していくという所まで行って、
それで帰って来るんですよ。

 それを今度はあの人が十字になって
降ろされるようになったら、白光の皆に降ろして、
白光の皆から又外の人達に降ろしてという計算が
出来ていってる訳ですよね。まずお手本がないと
出来ませんからね。だから、あの人の今の孤独とか
痛みとか苦しみとかいうものは大変なものでね。
 村田さんは、とに角素晴らしい素晴らしい
と言っているけれど、素晴らしいだけではなく、
本当に痛い苦しい辛い大変の連続だと思いますね。
 あれは他の人がやったら死んじゃうっていう
ものです。 
             昭和62年2月24日

オーロラは神様の絵心だということについて

2012-04-21 10:52:42 | スピリチュアル
 (問)オーロラが神様の絵心だとおっしゃい
ましたが、あのお話をお聞かせ下さい。


 (答)神様といっても、結局どんな姿形をして
いるかというと、人間と同じ形をしていますよ。
 何故かというと、神様は親ですからね。
 そうすると、神様だって、人間と同じような
個性はないけれども、やっぱりそれぞれの
高級神霊なんていうものは、それぞれの聖地、
天地に生きていて、世界に生きていて、それなりに
皆絵を描いたり音楽を楽しんだりしている訳です。
 楽人の霊人もいる訳なんですよ。

 その中で、あのオーロラというのはね、本当に
絵を描く事が大好きな神霊がいるんです。
 その神霊が自分の作品をおりおり楽しんで、
そして天地自然と一つになって神を称える
というように、ああいう絵を自分が描くのではなく、
描かされている。自然にさあっと流すんですよ。
 オーロラを見た時に、皆が本当に美しさに
見とれて、平和な気持ちになってね、あの色を
見ただけで眺めただけで、天然自然の素晴らしさを
思うんですよね。それは何故かというと、神霊が
本当に楽しんで、そういう願いをこめて、絵心で
描いたものだからそうなるんです。

 ですから、神霊だから神様だからといって
おさまって、神社仏閣の中に縮こまっているんじゃ
なくて、そういう人間へのメッセージというのはね、
神様だろうと持っているんですよね。だから、
オーロラを見た時には、神様の絵心があそこに
出たのだな、見せに流したのだなあと思っていて
下さればいい訳なんです。