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【シーサイドモータース、Garage伊太利屋、ビル大友さん忘れちゃ駄目ですよね・・・(付録付き)】70年代のスーパーカーブームを築いた名車7選!

2018年11月21日 22時53分26秒 | 真実を追及出来るYouTube!!

70年代のスーパーカーブームを築いた名車7選!

付録

み~たんの1日に密着してみた


スーパーカーブームと言えばシーサイドモータースと

F1チームオーナーでもあったウォルターウルフ氏

また事細かく日本に三栄書房のオートスポーツのライターだったビル大友さん。

名前を出さなければ思い出が寂しくなります。

 


 

~ シーサイド物語 ~

 

■ ブームが去った その10  1978年~1980年



おごれる者は久しからず。


あの熱狂的なブームは、まるで潮がひくように終わっていった。1977年の後半には、もう日曜日ごとに押しかけていた、子供達の姿もほとんど、見られなくなっていた。

ただ、困ったことに、我々社員にとっては、祭りのあとのけだるさのような、雰囲気がのこってしまっていた。

 

元々、ブームになって、知名度は上がったとはいえ、高額な車であり、またスポーツカーということもあって、売り上げ自体は、そう伸びなかったのだ。

社長、己晴にとっても、神風のような後押しがあったのだが、もともとのビルを建てた、有利子負債が大きくのしかかり、78年に入ってからは、電算機と毎日格闘するような日々が、始まった。


つまり、毎月の返済と、売上。それをバランスするために、資金繰りと称して、銀行から借金をする。


そう、あのブームが去った、78年ごろから、日本の景気はあまりよくない方向へ、向いていたのだ。

当時、営業部長として、シーサイドの顔だった、樋口さんが独立するために、退社し、後を追うように、工場長だったKさんも辞めていった。 

つまり、シーサイドは、急速に求心力を失っていったのだ。


今考えれば、最盛期30人ぐらい社員がいたが、それほど1枚岩と言うほどではなく、組織として、結束が高かったようには思えない。 


それは、やはり己晴さんの、リーダーとしての力量が足りなかったと言うことだろう。


例えば、例のブームのときの、臨時収入のようなものがあった筈だが、社員には殆ど還元されなかった。

夜遅くまで、働くメカニックからも、不満の声が出ていたこともある。
会社が、ほころぶのは、そういう細かいところからだろう。

 

そおいう私は、営業部長に任ぜられ、出来るだけの事はしようとした。

ただ、私も元からのマイペース人間であり、あまり人の管理など得意とする方ではなかったので、仕事は、あくまでも営業優先、人事管理は2の次、というような調子だった。


今考えれば、人選も含めて、かなり無駄があったように思う。



フィリピン、マニラのレストランで。中央左が己晴さん。その隣 髪の毛の長いのが私。



ちようどそのころだった、社長から息抜きにフィリピンでも行こうかと、言われたのは己晴さんも私も、初めてだった。



この時のフィリピン行きが、己晴さんの最後を決めるキーワードになったのは、縁というものだろう。旅行は、なかなか楽しいものだった。



南国の熱い風に吹かれて、(ホテルの名前もトレードウイングだ。)しばし、日本の事は忘れたのだった。



上は其の頃の写真。当初のシンプルな面影は消え、ダサイネーミングのステッカーをウインドウに貼り付けている。


つまり なりふり構わなくなってきていたのだ。会社もこうなるとおしまい。もう後戻りできなくなる。




79年になると、益々景気は悪くなり、会社もかなり経営が悪くなってきた。



つまり、他の会社と融通手形を切り出したのだ。(買売の実態が無いのに手形を互いに回すこと)こうなると、経理を担当していた、馬場専務は毎日顔がひきつってくるし、手形でもなんでもいいから車を売ってこいという、始末だった。



勿論、そのころには、あの豪華な社長専用室も、撤去し、ショールームの一角を経理室にする苦しいやり繰りが、つずいていた。



そして、とうとう1980年の年が明け、シーサイドモーター崩壊のカウントダウンが始まったのだった。 

 

■ シーサイド崩壊の日々  その11  1980年~1985年

1980年の正月は、いつになく穏やかな雰囲気で、始まった。
そして、1月があっと言う間に過ぎ、2月に入ったときだ、急に慌しくなったのは。


確かに、前回述べたようにその頃はすでに、この会社は借金で身動きが取れないようになっていた訳だから、つまずくのは遅いか早いかだけだったのかもしれない。



それは勿論、巳晴さんもよく承知の上ではあったのだろうが、人間誰でも負けは認めたくは無いもんだ。


事件は、九州の鹿児島のデーラー倒産から始まった。
当時シーサイドは融通手形を、ここと神戸と、3社ぐらいで回していたから、正しく命綱を切られたも同然だった。



次に神戸が飛び、もうどうにもならなくなった。



2月の10日ごろ、巳晴さんは疲れた顔で横浜に戻ってくると、私を呼び、「鞍ちゃん、もうどうにもなんねえや。」 と言った。 


次に、「しばらく、俺と博で(馬場専務のこと)台湾でもいって、身を隠すから頼むわ」と言われた。


私も、勿論倒産なんて初めての経験だったから、何をどうしてよいのかしばらく呆然としていた。



その時、ショールムには5~6台くらいの車が入ってはいたが、カウンタックのLP400が1台あるだけでほかにはたいした車は無かった。


ただ、2階の工場、3階の置き場には、客からの預かり車が、10台以上入っていた。
これをそのままにしたら、倒産を聞きつけて、債権者が押しかけ全部、担保がわりに持っていかれてしまう。



そこで私は、次の金曜日から、大至急預かっている車を返し始めた。
ある車はフェリーで北海道まで送ったりもした。


持ち主に連絡がつかない車は、仕方ないので横浜駅の地下にある駐車場などに、

分散して預けた。勿論、従業員総出でだ。まさしく時間を争う仕事だった。



次の土曜日、空っぽになったショールームに私は一人座っていた。
巳晴さんは、そのころもう飛行機に乗って、日本には居なかったし、別に従業員がいても始まらないので皆には、連絡するまで来なくて良いと言っておいた。


案の定、噂を聞きつけて午前中から債権者が押し寄せた。債権の殆どは銀行がらみだったが、社長の知り合いの個人から、借りているケースもあった。


巳晴さんは人望が厚かったから、みんな気安く、金を貸してくれていたのだ。
私は、怒鳴られようが、何されようがひたすら、申し訳ありませんと言うしかなかった。



大概の人は、車をどこへ隠したんだ?と聞いてきた。
ただ、私の裁量で処分できるのは、1台のカウンタックだけだった。


これは、巳晴さんが日本を出る前に私に譲渡書類を手渡し、これで皆への退職金代わりにしてくれと言われたのだ。


これを早々渡すわけにはいかない。


今考えれば、何であの時自分も逃げなかったのかとも思うが、一時的に逃げてもしょうがないやと思ったのだろう。


週が開けてからは、ヤクザが来たり、いろんな人が来た。


そして、1週間がたって、やっと巳晴さんが帰ってきた。
夜、ニューグランドにいるから、牛丼買って来てくれと言う。



私がこれからどうするの、と聞くと、とりあえず個人の債権者に謝りに行くという。
そして、次の日から、巳晴さんの人生で最も辛かっただろう日々が始まったのだった。



1世を風靡した、シーサイドモーター元社長、巳晴はどこへ行く。

その12、次回は新天地、フィリピンの話だ。 


 

■ 新天地フィリピンへ  その12  

前回までは、シーサイドモーターがまだ有った時の話だが、ここからは、会社が無くなってからの話になる。


そんなわけで、80年の2月に会社が倒産し、己晴さん及び元従業員は、私も含めて全員失業してしまった。



最後の時、営業及び、経理関係で、8人、工場が10人くらいいたと思う。



最近だって、この不況で会社の倒産なんて、日常茶飯事だが、いざ自分の事となると、それは厳しい選択をせまられる。


特に経営者はその負債について(倒産するという事は、負債が多かれ少なかれある訳だ。
シーサイドの場合、新聞に出たのが、18億くらいだったように覚えている。)銀行や、その他の債権者に対して、申し開きをしなければならない。



根の明るい己晴さんも、辛い日々をすごしたようだ。

ただ、時間はだまっていても、なにもしなくても、流れていく。



不思議なもので、2~3ヶ月もすると、まわりの雰囲気もなんとなく、落ち着きを取り戻し、無くなったものに対して、いまさらどうこういっても、仕方が無いという感じになるものだ。


私自信のことから記すと、始めは別の会社に移ろうかとも考えた。


事実、オートロマンという、当時東京では名を馳せていた会社の社長、三上さんが、お前行くとこないなら来いよ。
とも言ってくれた。


ただ、出来ることなら自分の力を(今思えばほとんど何も無かったのだが) 試したいという、若気のいたりで、いわゆるブローカーを始めたのだった。



本当に自分個人から、高い車を買ってくれる人がいるのか?と思ったが、贅沢さえしなければなんとか食っていけるだけの、売り上げを上げることができた。


そうこうしている内に、87年には周囲の勧めで有限会社に法人登録し、
気がついてみたら、今年で、独立して21年も経っていたわけだ。


次に、己晴さんの話だ。


彼も、最初のころは債権者に頭を下げて回って、忙しい日々をすごしていたが、1段落すると、次の事が見えてこず、寂しい気持ちになったと思う。



でも、彼は持ち前のバイタリテイーを発揮して、程なく次に自分が進むべき道を、見つけてしまった。


それは、フィリピンに移住して、むこうで島を買い、リゾートを作ろうというものだった。


なんで、フィリピンと言う発想が出たのか不思議だったが、恐らく私と一緒に社員旅行で行ったときのイメージがとても良かった
のだろう。(南国のおおらかなイメージが彼にぴったりだ。)


そこで、彼は自分の友人や、知人を頼って、出資者を集めにかかった。
一人50万で、会員券を売り、30人集めようと言うわけだ。


その1500万で、島を買い、”かやぶきの”リゾートを建てようというわけだった。
いくらフィリピンの物価が安いといったって、それくらいの金では建物を建てることは、出来ない。



そんな聞いたこともないような話で、しかも倒産して間もないのに投資するやつが何人いるのかと思ったが、不思議と己晴さんは、そう苦労せずお金を集めてしまった。

 

中には、シーサイドに金を貸して、損をした人も、また彼に金を預けたのだった。


これが人徳というものだろう。
これが普通の人が、そんなことを言ったら、けつを張り飛ばされている。


それで82年ころから、彼はフィリピンにこもり始め、島の物色やら下準備を始めたのだった。


つずきは、次回最終回、己晴さんの最後の時だ。

 

 モノローグ、 川の流れのように‥  最終回 

 

川の流れのように、水は海へと戻っていく。

そうこうしているうち、年は82年になり、シーサイドのことも皆の話題には、のぼらなくなっていた。


一方、己晴さんは、第2の新天地フィリピンで、着々と事業の準備を進めていた。


みなから集めた金で、小さな島を買い、現地の人を雇い、椰子の葉で作った、コテージを作り、いわゆる南国のリゾートらしきものを、作っていたのだった。



己晴さんによれば、俺はここに、ゲストハウスをいっぱい建て、レストランを作り、プールも作り、テニスコート、ショートのゴルフコースも作るんだ、と私に目を輝かして、語ってくれたものだ。


皆どうせ年をとるんだから、じじいになったら、ここにきてのんびりやればいい、というのが彼の考えだった。



しばらくするうち、己晴さんから、ようやく格好がついてきたから、一度遊びにこいやと連絡が入った。


そこで、シーサイド時代のメカニックや、友達など、5人ほどで行くことになった。


私も、今日まで世界中の色々なところに行ったが、このときの旅行は、未だにはっきりと頭に残っている。



それほど、ハプニングの連続で、面白い旅だったのだ。



フィリピンに1度でも行ったら解るが、まずこの国は全てが大雑把、悪く言えばいいかげんだ。


まあ、いいかげんというのは、良くないいいかたかも、というのは我々日本人から見てのことで、現地の人からすれば、それが当たり前のことだからだ。



自分の価値観を相手におしつけるのは良くない。


まして、外国にいったら、郷に従えが基本になる。


始めのハプニングは、マニラから国内線の飛行機に乗ったときだった。


己晴さんの買った島は、マニラから遠く離れていて、船でいったら24時間かかるといわれた。



当然、飛行機を選んで、乗ったはいいが、これがとんでもないポンコツで、シートはぼろぼろ、操縦席のドア-はあけっぱなしで、小さい飛行機だから操縦席が丸見えなのだが、奴らは片手で煙草を吸いながら操縦している。



ゆれるたびに、ドア-がパタパタと動き、プロペラ機なのだが、エンジンもあんまり調子よくなさそうだ。


客は我々をいれて、10人ぐらいで、無事に着陸するのを信じるしかなかった。



1時間ほどの快適?なフライトのあと、ようやく着陸した。勿論ちっぽけな なにもない空港だ。


待合室でほっとしていると、どうもようすがおかしい、われわれが目指すのは、ビラックというところなのだがどこにもそんな看板が出ていない、もしかしたらまだ手前なのか、と聞いてみるとそのとうりだった。



我々の乗ってきた飛行機は、もうプロペラをまわして滑走路に行こうとしている、管制係のおやじがおーいと手を振って、飛行機を止めてもらったのだった。



そこからまた1時間ほど飛んで、着いたのがフィリピンでも太平洋に面した、カタンドアネス地方のビラックだった。



待合室みたいなロビーに行くと、そこに真っ黒に日焼けした己晴さんがニコニコして我々を出迎えてくれた。



聞くと、ここからトラックに乗って、2時間ばかり、走ると言う。



町で大量の食物や、しゅろで編んだでかい袋に入れた、氷などを買い込んで、我々は出発した。



トラックの荷台に簡易式のベンチを置き、荷物は荷台に組み立てた屋根の上だ。



道は舗装などあるわけもなく、もう凸凹だらけだ。そこを己晴さんは結構なスピードで飛ばしていく。



おかげで荷台に乗った我々は、しがみついているのが精一杯という有様だった。



途中で、パンクもしながら、ようやく終点に辿り付いたと思ったら、ここからこんどは船に乗るという。


どんな船かと思ったら、カヌーに毛が生えたような、4、5人乗ればいっぱいのかぼそい船だ。



これを、2隻用意して、目的地の島へと向かった。




もうそのころは夕刻で、海なのにまるで湖のような静かな水面を、船は進んでいく。



まわりは今まで見たことも無いような小さな島が点在し、夕日に照らされたその光景は素晴らしいものだった。
30分も乗っていたか、ようやく己晴さんのプライベートアイランドへ、到着した。


島といっても、海から見るとほんの小さなかたまりみたいで、後で聞くと歩いて1周で、2時間くらいとのことだった。


熱海の先に浮かんでいる、初島ぐらいなものか。

そこで、始めに我々を迎えてくれたのは、蛍(ほたる)の大群だった。


昔話で蛍の灯りで本を読んだというのがあるが、たしかに出来るかもと思わせるくらい、小さな木に群がった蛍の大群は、異様なほど明るかった。

 

真っ暗な山道を、懐中電灯をたよりに歩いていくと、島の反対側に出た。


そこには、静かに打ち寄せる波打ち際に、バンガローみたいなコテージが3つほど並んでいた。


浜辺では焚き火がたかれ、従業員?らしき人たちが我々を出迎えてくれた。男女合わせて10人くらいか。


勿論、ガス、水道、電気など文明の利器は何も無い。
始めはとまどつたが、慣れてくるとそれもなかなかいいもんだと、思うようになった。


昼間は泳いだり、昼寝をしてのんびりとし、夜涼しくなると、浜辺でバーベキューを作ってラジカセを鳴らして、ディスコ大会というのが毎日のパターンだった。

そこでは、己晴さんは王様みたいなもんで、専属のコック、自分専用の若いメイド(15歳くらいの)を2~3人を使い、ほかにも近くの島から、大勢の人を雇って、素晴らしい?世界を作っていた。


勿論そんなことができるのは、フィリピンの田舎だからで、日本では考えられないことだった。


我々は、その素晴らしい ”楽園”に3日ほど滞在し、島を後にしたのだった。


最後の方では、井戸からくみ上げてくれる、シャワーの代わりが気持ち良く、フィリピンの人々の人なつこい笑顔にも、癒された思いがした。

その後、日本はバブルに踊り始め、私も少なからず恩恵を受けて、世界中を飛び回るようになった。


全然関係ないが、私の1回の商談で、最大のものが、10億で車を買って来いというものだった。


おまけに、選択はお前に任すと言われた。


そんなことで、己晴さんとも次第に音信が途絶え始め、風の便りにオフロードバイクで、島を走り回って転倒したとか9ホールのゴルフコースが出来たとか、耳に入ったりもした。


結局だれでも、自分のことが忙しくなると、人のことなど構っていられなくなるものだ。
私もその一人だった。また、己晴さんさえ居ればいつでもいけるという思いもあった。
そんななか、1994年の春、訃報が届いた。



己晴さんが突然、亡くなったというのだ。
それを聞いた時、私はひとつの時代が終わったなと、しみじみ思った。


勿論、横浜で盛大な葬儀が催され、私も参列したが、彼の骨はここにあっても、魂は、フィリピンにあるのだろうなと思った。

 
間違いなく、其処で過ごした10年あまりの生活が、彼にとって、最高の楽園生活であったろうと思うからだ。


シーサイドの最後のほうで、デスクにむかって、計算機をたたく、己晴さんの表情とフィリピンで見た、彼の笑顔を思い出せば、最後は幸せな人だったと思う。

私ごとで恐縮だが、私も今年で50才になった。
それで今まで出会った人のなか、1番魅力のあった人それは、勿論、己晴さんだ。
そういう人と出会えて本当によかったと思っている。

最後に、貴重な話を聞かせてくれた、馬場元専務、己晴さんの奥さん、息子の晴之さんに感謝する。

2001年 12月 7日
鞍 和彦
 


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