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【ルイヴィトン一番人気を支えている日本!実は、センスの良いデザインには鹿児島島津藩の影響が大きかった】ルイ・ヴィトンと日本の関係

2017年11月11日 10時45分44秒 | 感想&独り言!!

ソースこそ探せませんが・・・・・

現に日本の歴代総理大臣に一番の影響を与えているのが

鹿児島の島津藩だそうです。


国民が、真実を学べるような報道をしてほしいですね・・・

 


ルイ・ヴィトンと日本の関係

http://brand-bag-kaitori.com/japan/

LVのロゴマークが入っているモノグラムが魅了の一つであるフランス生まれのブランドバッグ

「ルイ・ヴィトン」は、多くの女性をミリョし続けてきた海外のブランドバッグですよね。


そんなフランス生まれのブランドバッグ「ルイ・ヴィトン」が実は、

幕末の日本と深い関係があったことを皆さんご存じですか?


初戦噂レベルと思われがちな幕末との繋がりですが、このことはルイ・ヴィトンのロゴマークにも

しっかり証明されています。


そこで、今回は、ルイ・ヴィトンと日本(幕末)の関係について触れていきます。

みなさんもルイ・ヴィトンに隠されたミステリーをここで一緒に紐解いてみてくださいね。


-◆ルイ・ヴィトンと日本(幕末)の関係は?◆-

ブランドバッグの代名詞と言っても過言では無く、バッグだけでなく、財布・キーホルダーなど

様々な革製品を世に排出してきたブランドルイ・ヴィトンは、多くのファンから絶大な支持を受けている

ブランドですよね。


そんなブランドであるルイ・ヴィトンが、一体日本とどのような関係を持っていたというのでしょうか?

実は、昔フランスのパリで開催された万国博覧会にその関係性が分かるエピソードがありました。


時は1867年幕末、当時、フランス・パリで開催された万国博覧会に日本代表として初めて

江戸幕府と薩摩藩が出品することになり、薩摩藩はアピールとばかりに数々の展示品に

丸に十文字の家紋を入れて展示したそうです。


更に独自の勲章として作成された薩摩琉球国勲章まで展示されたというのですから、

その力の入れようは凄かったことでしょうね。


この家紋入りの展示品は、薩摩藩の目論見通り、アピールとして成功したそうで、

その影響もあったのかある芸術家の目に留まりました。


彼の目には、丸に十文字の家紋が、あまりに聡明で心に響くものがあったらしく、

後にその家紋をモチーフにルイ・ヴィトンの関係者達によって、

ブランドのロゴマークとして作成されました。


そのロゴマークが現在でもLVのロゴマークと共に有名な丸に十文字で表したルイ・ヴィトンの

シンボルマークで、これらのマークは、ルイ・ヴィトンを象徴とするモノグラムに

使われるマークとして愛用され続けているのです。


-◆フランスにおけるジャポニスム文化とは?◆-


ルイ・ヴィトンを始め様々な芸術品・ブランドを生んだフランスは、この万国博覧会をきっかけに

日本の趣味嗜好や芸術作品が大変気に入り、フランス中で日本の芸術作品が大人気となりました。

その後、浮世絵・工芸品など様々な芸術作品が印象派の芸術家たちに影響を与えました。


その代表格がフランスの画家として有名なモネで、日本芸術を大変気に入ったモネは、自宅兼アトリエに日本風の橋や池を作り、その風景を描いたり、妻に着物を着せて浮世絵風に描いたりされていたと言われています。

一見フランスと日本(幕末)は特に繋がりが無いように思われがちですが、

実は芸術作品を通じて深いところで繋がりを持っていたのです。


そして、ルイ・ヴィトンも薩摩藩と深いところで繋がり、現在も、ある種その繋がりの証として、

丸に十文字のシンボルマークがモノグラムとして愛用され続けているのです。


-◆まとめ◆-


今回は、ルイ・ヴィトンと日本(幕末)の関係性・繋がりについて触れていきました。

ルイ・ヴィトンと日本(幕末)の関係は1867年にフランス・パリで開催された万国博覧会
にありました。

当時、万国博覧会に日本から初めて江戸幕府・薩摩藩が招待されそれぞれ想いの品を数々展示されたそうです。

その際に、薩摩藩はアピールとして数々の展示品に丸に十文字の家紋を入れ、さらに特別に作られた薩摩琉球国勲章を展示したことで、フランスの方達の目に留まりました。

その影響もあって、ある芸術家の目に薩摩藩の家紋が目に留まり、そのマークに聡明さを感じ感銘を受けると、ルイ・ヴィトンの関係者と共に現在のモノグラムに使われるシンボルマーク(丸に十文字)が作られたのです。

薩摩藩が当時の万国博覧会に参加せず、薩摩藩の家紋がルイ・ヴィトン関係者の目に止まらなければ、現在のシンボルマークも変わっていたでしょう。

そう考えると、ルイ・ヴィトンの奥深さを改めて痛感させられるような気がしますね。

まだまだルイ・ヴィトンには隠された謎がたくさんあるでしょう。

みなさんも是非、一度その謎を紐解いてみてくださいね。

きっとルイ・ヴィトンの新たな魅力に出会えると思いますよ。


 島津しまづ斉彬なりあきらとは

http://www.tenpo.biz/tentsu/entry/2016/03/30/150000

 

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さて、唐突ですが、皆さんはルイヴィトンのトランクをお持ちですか?


世界中の人に愛用されているルイヴィトンのトランクですが、日本でいち早く愛用したのは今回の記事の主役でもある幕末屈指の名君、薩摩藩藩主島津斉彬だと言われています。


また、ルイヴィトンと薩摩藩は縁が深く、私たちのよく知る『モノグラム』のモチーフの一つ、丸の中の十字は島津藩の家紋からヒントを得て1896年に考案されました。
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島津斉彬は名門島津家の第28代当主で江戸時代末期薩摩藩(現在の鹿児島県)を統治した人物です。


早くから西洋文明に興味を持ち、薩摩藩の富国強兵を押し進め、幕府に開国・殖産興業を提言しました。また明治維新の功労者西郷隆盛や大久保利通らを見出し育成した人物でもあります。


では、島津斉彬は西郷隆盛らをどのように見出し育成したのでしょうか?


部下の人財育成に悩む経営者の皆様に『維新のおり、薩摩藩から人財が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである』と勝海舟に言わしめた島津斉彬の人財育成術をご紹介いたします

 

身分の上下に関係なく優秀な人材を見出し意見を取り入れる

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島津斉彬は身分の上下に関係なく様々な人に意見を求めその意見を藩の経営に取り入れます。その中の一人が西郷隆盛です。西郷は元々下級武士でしたが年貢の取り立てに苦しむ農民の苦境を訴える為、農地改革意見書を薩摩藩に提出します。

これを見た斉彬は西郷を見込みある若者と判断し、御庭番として取り立て傍に置き指導します。斉彬の指導方法は、まず相手から意見を徹底的に聞き、それとは別の見解を示し、根気良く対話するというものでした。

 

自分の意見に凝り固まっていた西郷ですが、斉彬との対話を通じその意見を受け入れ徐々に視野を広げていきます。やがて禁門の変・長州征伐・薩長同盟・王政復古・戊辰戦争・江戸城無血開城など、主要な局面でことごとく活躍し、明治維新の実現に大きく貢献し日本近代化の礎を築きます

 

 

 

強い意志を持つ人物に着目する

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島津斉彬は下級武士であった大久保利通も見出します。大久保は幼少の頃より学問では誰にも負けないほど優秀な頭脳の持ち主でした。反面、寡黙で他人に威圧的で冷静かつ現実主義であり、他人の意見を聞き入れる事がほとんどありませんでした。

大久保は国の為なら私財をも投げ打ち、友人や戦友らとの義理・人情などを切り捨て、版籍奉還・廃藩置県・廃刀令などの改革を強力に推し進めます。結果、士族の不興を買い暗殺されてしまいますが、明治政府の運営に尽力しました。

 

強い意志を持ち他者に威圧的な人物は扱いづらく敬遠しがちですが、『付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない。器用さではなく強い意志を持った者こそ難局を乗り切る事ができる』と斉彬は言います。誰にも負けない強い意志を持った人物こそ優秀な人物なのかもしれません。

 

 

 

人材交流を図る

江戸時代他藩との交流は原則禁止されていましたが、島津斉彬は水戸藩主徳川斉昭・福井藩主松平慶永・宇和島藩主伊達宗城・佐賀藩主鍋島斉正・福岡藩主黒田長簿ら志を同じくした人々と連絡を取り交流を深めます。

このネットワークを活かし薩摩藩の若者の視野を広げる為、奨学金を出し他藩の若者と交流させます。その中の一人西郷隆盛は福井藩の秀才橋本左内と親交を深めます。

 

『これからの日本は富国強兵に努め、身分を問わず誰もが政治に参加できる国にしなければいけない』と説く橋本に最初は意見が合わず反感を持っていた西郷ですが、意見を交わす内に打ち解け無二の親友となります。

 

橋本は志半ばにして病に倒れますが、その後の西郷の行動に大きな影響を与えました。他にも斉彬は幕府が長崎に海軍練習所を開設したと聞くと、航海術に興味がある者を派遣し、長州に腕のいい医者がいると聞くと、医学を志す者を派遣します。斉彬により視野を広げネットワークを構築した若者たちは藩を超え結束し、明治維新という偉業を成し遂げます。

 

まとめ:島津斉彬から学んだ人財育成術

・役職に囚われず幅広く意見を聞きその意見を取り入れる。
・強い意志を持った者に着目し抜擢する。
・先々を見据え教育に資金を投じ他者との交流を図る。

 

 

余談ですが・・・

現在、NHKで放送されている『あさが来た』の75話(2015年12月23日放送)で五大友厚が主人公あさを大久保利通に引き合わせます。

『あさが来た』は実在した人物広岡浅子をモデルにしています。広岡浅子は江戸時代末期京都の豪商小石川三井家の三井高益の四女に生まれ、大阪の豪商加島屋一族の広岡信五郎に嫁ぎました。幕末から大正時代にかけ炭鉱事業を始め銀行、紡績事業、生命保険会社など数多くの企業を手掛けた女性起業家のパイオニアとされる人物です。


浅子が生きていた時代は女性が学問をする事もままならず、会社を経営するなどもってのほかと考えられていた時代でした。がしかし、浅子は型にはまらず、時代にとらわれず、ときに嘲笑されながらも自分の正しいと思ったことをやり抜きます。


困難と思われる事でもやり遂げることができたのは、理解ある夫やいい影響を与えてくれる友人の存在があったからではないでしょうか。実際に浅子と大久保に交流があったかは定かではありませんが、大久保も浅子に影響を与えた人の一人だったのかもしれません。


ちなみに、浅子と大久保を引き合わせた五大もまた、薩摩藩出身で斉彬の教育を受け実業家として成功を収めました。幕末の薩摩藩は人財の宝庫だったようですね。

 

 




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