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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

ノボさん

2015-05-24 00:04:04 | 読書日記
 「ノボさん ~小説正岡子規と夏目漱石~」
 伊集院静 著 講談社

 ここ数年、興味を持っている人物に正岡子規がいる。生まれてこの方ずっと興味を持つこともなく、ただ文学史上の人物で、明治時代の俳人、歌人で俳句や短歌の革新を訴えた人物で、「ホトトギス」という雑誌を創刊した人物とだけインプットされていた。それが、たぶん以前このブログでも書いたことがあるが、有名な子規の横顔の写真を見て、それが30代前半であったことに何とはなしに衝撃を受け、死ぬまで約7年を病床で過ごし、34歳で死去したという生涯を聞いたときに非常にこの人の人物像あるいは生涯に興味を覚えた。
 調べていくと不思議なもので、夏目漱石と同門であったり、野球という言葉を広めたという話(どうも事実ではないらしい、しかし、本名の升(のぼる)にちなんだ雅号である。)、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という著名すぎる俳句を詠んだ人物であったり、古今集よりも万葉集を評価したなどいろいろな話が興味をひいていく。思い込みとは恐ろしいもので、それまで、俳句や短歌をやる人は、結構なお年の方が多いので正岡子規もそういったちょっと枯れたような人物を想像していた。
 それが、全然違う生涯を送っていたわけで、ちょっとずつでも調べていければと思っていたところに本屋さんで平積みされている本書を見つけた。これは、読んだみたいと思い、購入。ちなみに出版されたのは、2013年である。なんで平積みのところにあったんだろう。まあ平積みされてないと、私とは出会えてなかったわけで、運命の出会いだね。
 この小説の副題には、小説正岡子規と夏目漱石とあるが、小説は、正岡子規が東京に出てきたところから始まる。正岡子規の周りには、三並良、藤野古白といった色々な人物が集まってくる。いろんな人物の中心にいるのが正岡子規、本書ではノボさんと言われる人物である。ノボさんは、ベースボールが好きでベースボールをよると聞けば、我慢できない性分である。本書は、そういった多くの友人や弟子に慕われたノボさんの青春を描いている。そして、子規が一番愛してやまなかったのが漱石である。
 本書を読んでいると、多くの友人や弟子が、家に集まったり、外に誘い出したりする。子規も喜んでそれに応えるのだが、これが本人の体を痛めつけ早死にをさせたような気がするとともに、死期を悟っているからこそ、一期一会ではないが、そういった友人たちがやってくるのを楽しみにしていたのではないかとも思ったりする。この時代、テレビもラジオもない時代である。新しい情報は常に人からもたらされるのである。今の時代のように、インターネットで検索すれば、すぐに関連した事項が調べられるというのではないのである。それだけ人と会うということが今以上に大事であったのである。

 のち、漱石が松山の中学校に職を得て、松山に居住するようになったとき「愚陀佛庵」にて数か月間、一緒に生活をしていた。(愚陀仏庵については、1階部分のみ子規記念博物館に復元展示されている。)面白いことに、この松山の中学校での体験が「坊っちゃん」にモデルとなった。そして、現在の愛媛県立松山東高校である。今年の春のセンバツに出場し、二松学舎大付属高校と対戦して勝利している。二松学舎大付属高校の前身が、夏目漱石の出身校である二松學舍である。坊っちゃんで田舎者呼ばわりされた仇を打ったように思える。

 漱石自身、子規とは一番の友人であったようで、学校のことや病気のことを絶えず気にかけていたように書かれている。漱石と言う雅号は、中国の故事から来ているのだが、もともと子規が使っていた雅号である。子規の意志を次ぐという意味もあったのかもしれない。

 残念ながら、子規がなくなった時、漱石は日本にいなかった。イギリスへ留学していたのである。小森陽一氏の「漱石を読みなおす」によると、子規は漱石に雑誌「ホトトギス」へイギリス留学について随筆を書いてくれるように手紙を送っていたそうだ。しかし、漱石から原稿が送られることはなかったという。当時の漱石は神経衰弱となっていて、子規のもとに随筆の原稿を送ることが出来なかった。そして、漱石の活躍は、子規の死後から始まる。子規は、1902年に亡くなっており、漱石がデビュー作「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表したのは1905年である。以降漱石は、「坊っちゃん」「草枕」「こころ」などの日本文学の名作を立て続けに発表し始める。まるで、子規の魂が乗り移ったかのようである。不思議と、多才な子規が唯一名をなすことが出来なかった文芸が小説である。漱石は、その小説で大成したのである。

 本書の最終章は、「子規を、白球を追った草原へ帰りたまえ」という題で書かれている。この小説の中でも一番力がこもっているのではないかと思う。子規は、死の間際に「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」の三句読んでいる。また、母、八重は、子規の死んだ後、遺体に向かって「さあ、もういっぺん痛いと言うとおみ」と何度も呼びかける場面は、私たちの胸を打つ場面である。子規の魂は、狭い子規庵を抜け出して、ベースボールが行われている大きな世界、青い空に羽ばたいたのである。子規の好んだ野球は今や国民的なスポーツになっている。野球の用語である「打者」「走者」などは、子規が翻訳したものだという。未だに、野球の中にも子規は生きているのである。

 
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