純文学とはなんぞや?
なんとなく感じとしてはわかるのだけど、実際には、はっきりした線引きはなく、漠然としたジャンルで、むろん純文学の定義とかは色々論争があって、一体誰が、どれを純文学と断定するのだろう。
読み手からすれば、純文学よりは、ストーリー性のある大衆文学の方がはるかにおもしろい。
単に筋を追うだけの小説には、文学としての評価が与えられず、たいした出来事でないものを、内面だの思想だのイマジネーションだのなんだかんだで深く追求していくようなものが純文学なのかしら、と思ったりする。
笙野頼子は、純文学の守護神なのだそうだ。
この三冠小説、『タイムスリップ・コンビナート』は、芥川賞受賞、『二百回忌』で三島由紀夫賞受賞、『なにもしていない』で野間文芸新人賞受賞というだれにも破られていない記録を持つ。
でもきっとこの名前を知っている人は少ないよね。 一部にファンは多いらしい。
どんな人かなあと想像をめぐらす。
昨今の女性作家は、女優のように華やかでマルチ的な方も多いけれど、このおたく的な文章からは、たぶんそうでないだろうな、と。
写真を検索して、みつけました。 ファンサイトによると「不敵な面構えは一度みたら忘れられない」とあったけど、うーん、なるほど。
「なにもしていない」の腫れた手のこれでもかという描写、引きこもって外部と接触しない人物が作者と重なってしまうのだけど・・・。