ふりかえれば、フランス。

かつて住んでいたフランス。日本とは似ても似つかぬ国ですが、この国を鏡に日本を見ると、あら不思議、いろいろと見えてきます。

親はなくとも、子は育つ。政治家はなくとも、国は復興する。

2011-08-26 21:33:58 | 社会
「親はなくとも、子は育つ」といえば、戦後の復興期、親を失ったものの、逞しく生きていく子どもたち・・・そんなイメージを勝手に思い浮かべてしまうのですが、今日では実の子を虐待する親、引き取った子を殺す里親、前妻や前夫の子どもを虐待し、殺す親たち・・・親がいるから、子は殺される、そんな時代になってしまっているような気がします。こうした時代に、政治はどうなっているのでしょうか。

首相の任期は1年と決まってしまったようで、永田町だけで生きている人たちの権力闘争が繰り広げられています。菅首相が民主党の代表を辞任し、30日には新首相が指名される予定です。3・11以降の対応を見ていても、政治家に見捨てられた国民、といった感じがしてしまいます。もはや、お上は助けてくれない・・・

そこで挫けてしまうのか、それとも、それなら自分たちだけで立ち上がろうとするのか・・・日本国民の選択はどちらなのでしょうか。日本国民が進もうとしている方向を、フランス人・ジャーナリストの視線で追った記事が、24日の『ル・モンド』(電子版)に出ていました。記者の名は、フィリップ・ポン(Philippe Pons)氏。さて、どのような日本国民が描かれているでしょうか・・・

もちろん、自慢するようなことではない。日本の国民総生産は第二四半期に0.3%減少し、どのようなものであれ、首相が何か大きな変革をもたらしてくれるとは、誰も期待していない。8月下旬にいくつかの法案が成立するや、不人気な菅首相の日々は終焉を迎える。3月11日の災害は、何年も前から政治闘争に明け暮れ、国民に明確な指針を示すこともできない日本政治の深刻な危機を、より一層明らかなものとした。

福島原発での原子力災害は、政治家、官僚、企業の共謀の上に成り立っている権力構造の誤りをドラマティックなカタチで明らかにした。その三者によるトライアングルは、怠慢によるものか、冷笑主義のなせるわざか、国民を受け入れ難い危機へと向かわせた。そして、日本は希望を失ってしまうのだろうか。3・11の大災害は、幾人かの例外はあるにせよ、政治家と国民の間に長年かかって掘られてきた溝を一層深いものとしてしまった。しかし、少しでも視点を移し、永田町を忘れてしまえば、日本の現状は、バラ色とは言えないにせよ、異なったものとして見えてくる。

クルマやエレクトロニクス関連企業など、震災地域でのサプライチェーン崩壊の影響を受けた企業は多いが、それでも日本経済は予想以上に持ちこたえている。円の為替レート急騰など世界経済の影響も輸出企業に重くのしかかっている。しかし、その影響は2008年の金融危機よりも小さい。

節電にもかかわらず、クルマやエレクトロニクス関連企業は、生産を再スタートさせた。個人消費も回復の兆しがあり、被災地への公共投資が芽生えている回復基調を後押ししている。日本の生産力には余力があり、3.11以後の要求に答えて、新たな産業構造を見出すことだろう。しかし、真の復興力は、そこではない別のところにあるようだ。

世界は、大災害に対峙した被災地の人々を、静かで、威厳を保ち、冷静だと評した。要望することへの対応が遅く、被災者は本当に大きなフラストレーションを抱えていたにもかかわらず、盗難も殆どなく、略奪や争乱となるようなデモもなかった。だからと言って、日本人は無気力だというわけではない。対応の遅さへの怒りはブログに溢れた。特に社会的な怒りの津波は、市民が抱いていた政治家への幻想のかけらを静かに一掃してしまった。

50年以上にして初めての政権交代だった民主党政権の誕生から2年、変革への期待はすっかりしぼんでしまった。菅首相の不人気はその国民の幻滅を凝縮している。しかし、その不人気は逆説的なものだ。内閣支持率は16%にも達していないが、原発なき社会という提案は多くの世論の支持を得ている。それにもかかわらず、菅首相を信頼する人は誰もいない。

被災地域の小さな町や村では、国会議員の不在感に驚きを禁じ得ない。国会議員たちは、来たかと思うと、すぐ帰ってしまう。一方、被災地の市町村長や地方議員、市民団体は苦境から脱するべく多くの作業を自発的に行っている。試練によっていっそう絆を深めた地域社会は、地域住民と全国から集まったボランティアとによって支えられている。若者を中心とした100万人ものボランティアが1日から数週間まで、期間はさまざまだが、どんな作業でも構わないから救援の輪に加わろうと集まったのだ。

彼らの行動は多様で細分化されているため、どう評価していいか、難しいものがある。しかし、現地では彼らの行動はやはり突出して目立っている。後は、中央省庁が復興計画を決定したのち、そのプランと彼らの行動をどうコーディネートしていくかだ。県知事や市町村長、地方議員たちはそれぞれに働いているが、予算の地方配分が不十分なため、十分な財政をもって自主的に行動することができずにいる。

アメリカ人の日本政治学者、ジェラード・カーティス(Gerald Curtis)によれば、近い将来、強力で効率的な政府が日本に誕生するとは予想し難いことだそうだ。しかし、今回のような市民の活動がロビイストによって牛耳られていた民主主義を市民の手に取り戻す原動力になるかもしれない。市民の参加が一地方に留まらないだけに、より一層その可能性がある。企業の支援もボランティを後押しした。日本企業はもちろんだが、フランス企業など外国企業も、現地で活動するNGOを通してボランティ活動に参加する社員を支援した。大きな人道的組織も被災地支援を旗揚げしたが、現地の必要性とはかけ離れ、官僚的作業の遅さにより支援予算は部分的にしか配分されていない。

目下のところ政治の力によるものではないが、今回示された国民的連帯によって地域社会の絆はいっそう強固なものになっている。日常生活を一日でも早く取り戻そうと頑張っている人々の活動を、政治家たちは永田町という外界の見えない壺に閉じこもったままでいつまで見えない振りをすることができるのだろうか。

・・・ということで、3・11の災害に対して発揮された国民の連帯感は、政治を家業とする人々やその周辺に巣食う政治のプロが取り仕切ってきた民主主義を市民の手に取り戻すきっかけになるのではないか、という希望が語られています。そうあってほしいと思います。

国民不在、選挙の時だけのリップサービス、献金者など直接的支援者だけへの利益誘導・・・そうした政治から、国民が主役の政治へ。そのためには、はたして政治家は必要なのかどうか。そこから議論を始めたほうがいいような気さえしてきます。

国民は自らにふさわしい政治しか持てない、と言います。政治を変える第一歩は、国民が踏み出すべき。今回の大震災に対して示された連帯感が、その一歩になるのかもしれません。企業も、自らの生き残りのために、お上の判断を待たずに、自ら行動を始めています。国民も、お上頼みを諦めて、自主的に行動をし始めているのかもしれません。

東日本大震災が最も大きな、決定的な亀裂を入れたのは、実は国民と政治の間だったのかもしれません。そして、戦後体制に別れを告げ、21世紀型の社会体制へと移行する第一歩になるのではないでしょうか。そうなってほしいと思っています。
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