躾のできない親
子供の躾ができない親に限って、勉強も躾も学校が教えるものと勘違いをしているようです。それでなくても文部省や教育委員会の変な指導で、教師にはつまらない雑用が多過ぎるのに、それでは教師が可哀そうです。
学校の躾は、いろんな活動の中で親の躾の不足部分を補いつつ教えることはあっても、一から十まで教える場ではありません。
不幸にも諸事情があり、自分自身がそのような教育を受けることができなかった親もいるためです。親の言い分では貧乏に起因することもあったかも知れませんが、貧乏を恥じることはありません。寧ろ、そのような環境に置かれたことは非常に幸運なことで、将来的にとても大切な経験を学ぶチャンスを得たことになります。
人生において成功を収めた多くの方々が、その経験を生かしています。
どんな親でも子供にすべてを躾けることは困難なことで、社会に出て学ぶ世間常識も沢山あります。
学校という場所
何でもかんでも学校へ放任し、教師に理不尽な要求をする方もいますが、学校というものは、集団活動の仕方を知り、人の思考に違いがあることを知り、その活動により社会を学ぶ場です。
何でも詰め込みで教える場でもありません。勉強の仕方、楽しさ、考え方を教える場です。決まっていることを覚えるのは、学校でなくてもできることだし、場所を問わず自分で調べて覚えてもいいことです。興味のあることなら年齢に拘わらずいつ学んでもいいことです。
従い、小学校は別としても、試験だって暗記の数をテストするのではなく、考え方や解決法を理解しているかに重点を置くべきものです。
上級にいけばいくほど、躾からは遠ざかり、学問の素晴らしさ、探求や活用の仕方へと変化させるべきものです。
確かに最近の我が国の子供の学力が諸外国に比べて、以前よりかなり落ちたことが問題になっています。もちろん、親の責任ではなく、国の指導方針が間違っているからです。以前の「ゆとり教育」も完全なる失敗がその原因です。
子供の躾ができない親に限って、勉強も躾も学校が教えるものと勘違いをしているようです。それでなくても文部省や教育委員会の変な指導で、教師にはつまらない雑用が多過ぎるのに、それでは教師が可哀そうです。
学校の躾は、いろんな活動の中で親の躾の不足部分を補いつつ教えることはあっても、一から十まで教える場ではありません。
不幸にも諸事情があり、自分自身がそのような教育を受けることができなかった親もいるためです。親の言い分では貧乏に起因することもあったかも知れませんが、貧乏を恥じることはありません。寧ろ、そのような環境に置かれたことは非常に幸運なことで、将来的にとても大切な経験を学ぶチャンスを得たことになります。
人生において成功を収めた多くの方々が、その経験を生かしています。
どんな親でも子供にすべてを躾けることは困難なことで、社会に出て学ぶ世間常識も沢山あります。
学校という場所
何でもかんでも学校へ放任し、教師に理不尽な要求をする方もいますが、学校というものは、集団活動の仕方を知り、人の思考に違いがあることを知り、その活動により社会を学ぶ場です。
何でも詰め込みで教える場でもありません。勉強の仕方、楽しさ、考え方を教える場です。決まっていることを覚えるのは、学校でなくてもできることだし、場所を問わず自分で調べて覚えてもいいことです。興味のあることなら年齢に拘わらずいつ学んでもいいことです。
従い、小学校は別としても、試験だって暗記の数をテストするのではなく、考え方や解決法を理解しているかに重点を置くべきものです。
上級にいけばいくほど、躾からは遠ざかり、学問の素晴らしさ、探求や活用の仕方へと変化させるべきものです。
確かに最近の我が国の子供の学力が諸外国に比べて、以前よりかなり落ちたことが問題になっています。もちろん、親の責任ではなく、国の指導方針が間違っているからです。以前の「ゆとり教育」も完全なる失敗がその原因です。
子供の勉強の遅れを話題にする方もいますが、 遅れてもいいのです。
本人に学習意欲さえあれば、自分の得手不得手を知り、得意な分野を伸ばせば良いことで、親も教師もそれを助言すべきと思います。
勉強の遅れは何に関係しているか、何に対して利益・不利益があるのか? 親も教師もそれを見極めることが大切です。
楽しさを教えるのが一番
遊びも勉強も仕事も同じで、楽しくなければ、やり甲斐がなければヤル気も出ません。一生懸命にやり、努力を重ね、できなかったことができるようになった喜びや楽しさを教えるの一番で、つまらない、地道な辛い苦労ではなく、楽しく学んだ結果により、「さらにもう少し」という新たな目標が生まれるものです。
勉強の遅れは何に関係しているか、何に対して利益・不利益があるのか? 親も教師もそれを見極めることが大切です。
楽しさを教えるのが一番
遊びも勉強も仕事も同じで、楽しくなければ、やり甲斐がなければヤル気も出ません。一生懸命にやり、努力を重ね、できなかったことができるようになった喜びや楽しさを教えるの一番で、つまらない、地道な辛い苦労ではなく、楽しく学んだ結果により、「さらにもう少し」という新たな目標が生まれるものです。
学校の面白い先生の授業は、生徒を退屈にさせません。少なくとも授業を受けたくない気持ちは持たせません。教師にもそのような工夫や努力が求められます。
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読んでおられますか?
公園で遊んでいて、他の子にケガをさせてしまった子がいました。
ケガをした子の親がさせてしまった子の家に行ったところ、母親が子供に「〇〇ちゃん、やったの?」と聞き、その子が「やっていない」と答えると、「子供がやっていないといっているのだからやっていない」と言い張ったそうです。
周りに多くの目撃者がいたのに認めなかったそうで、すごい親がいるものだ、だから訳の分からないことを言い出す大人が増えるのだと思いました。
小さい子供は親が怒るのを恐れ嘘をつくものです。
そこを鵜吞みにせずに追及して「嘘をついたらもっと怒られる、正直に言えばそんなに怒られることはない」という認識を持たせなければ平気で噓をつく子供~大人になってしまいますよね。
まさに躾の問題です。
私は昭和一桁生まれの親の元で育ちました。
戦前を経験していますし、田舎なので周囲の人たちの目もありある程度の常識は持たせてもらえたと思っています。
十把一絡げにして語ってはいけないのかもしれませんが、戦後生まれの親に育てられた人たちに躾ができない人が多いような気がします。
躾は親や周りにいる大人がやるべきもので学校に求めてはいけないですね。
全く仰る通りです。
私も後期高齢者の一人(戦中生まれ)ですが、私達世代が育てた親がそうですね。
それくらいですから、いまの政府のように、嘘を平気でつき、記録改ざん、あっても隠す隠蔽工作、場合によっては人まで隠してしまうことをやっています。
この体質は、庶民が黙っている限り変わりません。みんなで力を合わせて政府の体質を変えないと、ますます弱貧国化します。所得や学力などでは既に始まっていますね。
highdyさんの仰ることはそのとおりだと思います。
私の父親も教師でしたので身近でそれとなく学んだものもありますが、基本的にはhighdyさん方式(?)が正しいと思います。
私が歴史や登場する人物、そして小説などに興味を持ったのは小学校5、6年生時の担任の先生の興味、関心に結びつけるような楽しい授業の影響が大だったと思います。
社会経験もなく、いきなり「お山の大将」となって子供たちと接する先生方も
大変ですが、雑用に振り回されることなく子供たちに興味や関心を持たせるような指導に期待したいですね。
人間の性質として、何らかの快感を味わうと、さらにもっと・・・というものがあります。
良い面、悪い面ともそうです。悪い面は単なる中毒と言ってもいいですが、良い面の場合は、
① 子供自身が幼い頃に持ったある種の興味で、
それを周りが気づかないで伸ばさなかったとき、ある程度大きくなってから、
② 何らかのキッカケが本人にヤル気を起こさせることがあります。
私の場合は後者の方で、中学校の時の発明(実際にはただの創意工夫)を先生が褒めてくれたことがキッカケになりました。
教師がもっと自由に動けるように雑用を減らす教育政策も必要ですし、教師自身もそのようなことに信念を持って当たって欲しいものです。
いつもご訪問ありがとうございます。
ご賛同いただき感謝です。気持ちが「!」に現れています。
私の母方には教職者と政治家がとても多かったので、母は私に教師になって欲しかったらしいのですが、私はどちらの職業も大嫌いならなくて良かったと思っています。
教えることは好きですが、学校の先生には全く向いていませんので。