緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

國鉄機関士にお逢いして

2009年06月30日 18時32分19秒 | 地域社会
6月30日(火) 

午前十時半をすぎた頃に、地方紙の読者欄に「機銃掃射恐怖が忘れられない」の一文を三月五日に投稿された串間市の百野達夫氏宅を訪問しました。串間市で朝一番仕事を終えて帰路にお寄りした屋敷は三世代が二つ居宅に同居されており、外見からもにぎやかで豊かな老後生活が伺えます。戦争を知らない世代が増えた中で敗戦間近の昭和二〇年三月十八日の敵機来襲による機銃照射、みるみる内に血の海となる日南線上の旅客列車内、日本各地がアメリカ軍戦闘機や爆撃機B29による空襲を受けた頃の様子が浮かぶ一文です。



初対面のご挨拶をして、実際は昭和二二年四月にお逢いしていますが、昔の記憶をたどる中で通された部屋に掲げた彰状を見せて頂きました。
その本文を掲示してみますと
「右ハ昭和二十年三月十八日以降数次ニ亘ル南九州地方空襲ニ際シ敢然其ノ職域ヲ守リ敵襲下戦時輸送ノ重責完遂ニ挺身セリ是畢竟危難ヲ顧ミス克ク其ノ本分ヲ盡シ國有鐵道奉公精神ヲ発揮シタルモノニシテ洵に衆ノ模範ト為スニ仍テ茲ニ之ヲ表彰ス・昭和二十年五月一日」
グラマン戦闘機が九州の都市へも襲撃していた雰囲気が伝わってきます。


グラマン戦闘機空襲下活躍の彰状を掲げる元國鉄機関士百野達夫氏

当時の様子をネットで調べますと、硫黄島守備隊玉砕が三月十七日、次は沖縄へのアメリカ軍の攻略が始まった頃でネットの一文に「沖縄戦は一九四五年三月二六日から始まり組織的な戦闘は六月二三日で終了した」とあります。遠雷にも似たる沖合の艦砲射撃、三つ子の耳にも焼き付いた親たちの会話、遙か六四年前の出来事ですが、今ふり返りますと南九州志布志市で時代の変わり目に出逢ったと言う思いです。



六四年の風雪に耐え抜いた古文調の彰状文面を眺めいりますと、母校都城市立東小学校校歌一節にあります「国の誉れを担いなん」と歌詞が歌曲と伴に浮かんできます。職責を全うする事が如何に大切か、むしろ誇りとなるか、その反面、当時の様子を思い浮かべますと軍人が政治に関与する時は国の荒廃が背後にあると改めて確信するものがあります。


昭和22年4月(1947.4)国鉄日田機関士教習所の鹿児島県関係教師と生徒

その後、敗戦を迎え国の荒廃の中でも國有鐵道はしかと機能して門司鐵道教習所が戦災で焼失、日田市へ教習所移転、国鉄機関士教習所を介して戦後の様子が伝わってきます。国鉄機関士とは敗戦後も国の誉れを担いなん。見せて頂いた写真は鬼籍に入った両親アルバムにも同じものがあり、教師と生徒の間柄、年齢にして九歳しか隔たりはありません。兄が弟に教えるように機関士養成は行われたのでしょう。また、幼子に残る一番の記憶は食糧難これも敗戦の後遺症。



今なお世界各地へ軍隊を派遣する巨大国家アメリカ、南九州の平和な現状は沖縄戦の上にあるのかと改めて認識します。静かな志布志湾の光景、満ちたりた老後にふさわしい背景、かって帝国海軍艦船が海を埋めたと伝え聞きます。敗戦が昭和二〇年八月十五日でなかったなら、十一月一日にはアメリカ軍艦船が埋め尽くした志布志湾。国家の存亡と戦争、国の誉れを担う事と戦争、冷静な判断とは何か?自分なりの答を探すに他国へ武力の行使はすべきでないと今も信じます。


志布志機関区が存在した場所に展示の蒸気機関車

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