宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

高橋克也(1965生)「宗教の発想・哲学の思考」『哲学への誘いⅢ』第5章、2010年、東信堂

2014-10-07 19:16:31 | Weblog
A あさましい想念としての宗教
A-2 宗教における、思考の麻痺。
A-3 宗教は盲信。哲学は自分で思考する。
A-4 誰もが科学しているわけでない。おまかせの意識。これは宗教と同じ。
A-5 宗教は思考の麻痺である。

B 体調不良を霊的力で治したいと、私は「新宗教」(江戸時代後半以降に成立)のR教団に入信。
B-2 入信動機は、宗教学者が指摘するように「貧・病・争」からの解放。
B-3 心理的に治療効果あり。

C 「あの世」について、「この世」からは説明できない。

D 人は、宗教になぜ惹かれるのか?
D-2 苦しみの除去のため、五感を超え、科学を超えた存在に頼る。宗教的発想。

E 何よりも宗教は、苦しみの「原因を説明する」。
E-2 「原因の問い」が宗教を求めさせる。
E-3 「なぜ自分だけ、こんな苦しい目にあうのか?」と神の意図を問う。「なぜこの私なのか?」
E-4 「私は苦しんでいる。それは誰かのせいに違いない。」(ニーチェ)

F 「超自然的なもの」の2種類。
① 「人格的な神」への信仰。
② 非人格的な「高次の」宇宙法則への信仰。(例えば「因果応報」の法則。)ただしこれは、善行または悪行が、幸福や不幸をもたらすとする「高次の道徳的因果法則」である。

G R教団の奇蹟。私は友人から借りた貴重な本をなくした。R教団の儀式に参加したら、古本屋でその本が見つかった。

H 教団に属することは、思想的に奴隷になること。
H-2 宇宙の本体について、他の宗教または思想を信じることは、「不信心」!

I 教団が「私に従うか、さもなくば苦しみ続けるかだ!」と言ってくるのは脅迫。
I-2 「信ずる者」だけを救う神は差別的であって、「本当に人々を救う」とは言えない。

J 科学または合理的探求は、差別的でなく、すべての人に開かれている。
J-2 「神や教祖への恭順」は差別的であり、また隷属である。

K ある教団役員が、下位の役員について「信仰が足りないからあの年齢でまだ家が持てない」と言った。神の権威を笠に着て、自分が他人より偉くなった気分になる。
K-2 嫉妬、虚栄心、慢心を、宗教=教団も、取り除けない。

L 自分の属する教団をみな弁護する。宗教は、傲慢と不和の温床。

M 「宗教は阿片である」(マルクス)。神に祈って、現実を変えようとしない。
M-2 耐え難い苦しみを救うモルヒネとしての宗教。

N 宗教の教えは、世俗的視点から価値判断するのが、正当である。
N-2 常識で判断する。
N-3 「神は『人類は腐敗しているからいったん全部皆殺しにせよ』と言っている。」このような神の教えは、常識で判断して「狂っている」。
N-4 何が神にふさわしいかは、実は人間が決めている。

O 「低いレベルの者は殺してやった方が、彼らの来世のためである」との教団信者の発言はエリート意識。

P 「人間社会の価値観は多様で一つに決まらない」というのはウソ!例えば「助け合い」がよいというのは普遍的。(ただし共同体内。)

Q 宗教的寛容は宗教「内生的」でなく、外部的な苦い経験から学んだ。
Q-2 人つの宗教、一つの国家に埋没した時の苦い経験。

R 価値観とは、「よき人生」とは何かに答えること。
R-2 私は「神に頼らない人生の方がよい」と結論した。
R-3 「うらやましくかつ尊敬できる人」とは「自分の持つ能力をよく使った人」である。

S 宗教の第2の類型「因果応報」を信じることの問題点。(S、T、U)
S-2 「因果応報」を「高次」の法則と言ってよいのか?

T 「良い」結果・「悪い」結果と言っても、ふつうの世の中の「良い」・「悪い」であって、宇宙の法則に基づくわけでない。

U 「高次元」の因果応報は結局、「確かめることができない」法則。例えば「信仰をやっていたから大学に合格できた」など、確かめられない。
U-2 「人を苦しめた報いとして、今の自分のこの病気がある」と言われても、確かめようがない。
U-3 検証も反証もしようがない。例えば「信仰しているから、この程度の不幸ですんだ!」

V 教団では「信仰をやめたら、もっとひどい不幸がやってくる」と言われ、指導者に隷従する。
V-2 「脅迫によって教団指導者に支配される人生は、いやだ」と、私!
V-3 何が善で、何が悪かは、常識に照らして、私が判断する。

W 高次の法則を信仰し、「善行をして謙虚なら、福を手にする資格がある」という生き方は、「現実的解決」をめざす道ではない。合理的探求が重要。
W-2 哲学は「自立した思考者」であろうとする。

X 信仰者は「偉大な存在の前に、エゴをおさえる」と言いながら、「自分がエライかどうか」を気にするエゴイストである。
X-2 信仰者は、「偉大なもの」を前にして自分のエゴがねじ伏せられるという体験をする一方で、今度は、「偉大なもの」の権威を笠に着て、無神論者や異教徒を憎み軽蔑するが、これはエゴである。
X-3 善行・謙虚によって「福がやってくる」、「罪が赦される」という計算高いエゴイズム。

Y 哲学における思考:「人の意志や意向」でなく、「事物の法則」に従おうとする態度。
Y-2 「どちらの人格がより偉いか」という問いとは、無縁。支配と隷従とは無縁。
Y-3 ともに探求する仲間同士、思考する人間同士という関係。健全な社会の条件としての哲学的態度。
Y-4 「エゴの働き」としての宗教。「思考の働き」としての哲学。
Y-5 失敗を「うじうじ悩む」こと(宗教)と、失敗の「問題点を考える」こと(哲学)の差異。

Z 運命から自由になろうとする行為としての哲学。

《評者の感想》
(1)宗教あるいは教団がエゴイズムに支配されているとの見方は、著者自身のR教団への入信体験に基づき、生々しく説得的である。
(2)ふつうの世の中の「良い」・「悪い」、「善」・「悪」の基準に、宗教がしばられているとの指摘は、なるほどと思わせる。
(3)教団には、支配と隷従しかないと指摘する著者は、世俗の人で、神への隷従を知らない。つまり宗教的でない。
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