日記

日記

晴れ

2010年06月03日 | 徒然日記・日々の記録
今日もとなり、夏日の陽気となり暑くなりましたね。

終日寺院勤務

寺務・草刈り・枯れた花抜き・ゴミ収集・樹木剪定・落ち葉掃除などして過ごす。

炎天下の草刈りは誠に疲れますね・・例年、境内周りの草刈りのラウンド数は、4月~10月の半年間で6、7回となります。だいたい1ラウンドするのに、4日間ほどの期間が必要ですから、半年で25日間は草刈り作務をしていることになります。もちろん、終日しているわけではありませんので、一日平均4時間程度となりますので、25×4で100時間となります。こう改めて考えますと大変ですね・・

さて、仏教・中観思想の考究を続けておりますが、「中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の相違点」について解説されているコラムをご紹介させて頂きます。少し内容は難解となっておりますが、かなり、重要で微細なる両派の相違点について、明確に扱われているのではないかと考えております。私もしっかりと理解していければと存じます。

チベット仏教ゲルク派 宗学研究所
http://rdor-sems.jp/
ポタラ・カレッジ 齋藤保高氏の個人サイト

教理の考察「誰も知らない火事」齋藤保高氏
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、またの機会に考察しましょう。

・・ここまで。

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瓢箪山へようこそ・瓢箪山地域まちづくり協議会ホームページ
http://hyotanyamarket.net/

 さて、東大阪市・第二次総合計画審議会・地域別部会におきましてご一緒させて頂きまして、部会長を務められておられました大阪商業大学・総合経営学部・商学科の准教授であられます酒井理先生のご指導下にて、先生が長年取り組んでおられる瓢箪山商店街活性化プロジェクトの一環におきまして、この度、「瓢箪山地域まちづくり協議会」(会長・酒井理氏)が発足され、商店街の活性化と地域まちづくり活性化を連動して推進していく母体としての組織体制の整備が進められています。

 若輩の未熟者ではございますが、私は事務局長の任を賜っておりまして、体制整備に関しまして、鋭意精進努力致しております。

 そこで、様々に市内におきまして市民活動や社会活動にて活躍されておられます方々の参画を頂き、ご意見やアドバイス等、これからの事業への協力を賜るために、広く有為なる人材を市井に求めさせて頂いております次第でございます。

 協議会の趣旨・目的に関しましては、下記の内容をご参照頂きまして、参画にご興味のある方は、是非、ご連絡を頂けましたらと考えております。

 地域まちづくりの発展、地域への貢献を目指して、これから様々な地域まちづくり関係団体と連携協働を模索していきながら地域課題の解決を図っていき、地域住民ニーズに的確に対応できる意義の高い組織体制づくりを行って参りたいと考えております。

 どうかご理解頂きまして、ご協力を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

瓢箪山地域まちづくり協議会概要
http://hyotanyamarket.net/office.html

事務所・キューたんステーションは、地域まちづくりについての情報収集や発信、連携協働促進へ向けて、お気軽に活用のご検討を下さいませ。

これまでの活動報告
http://hide-1.jugem.jp/?cid=16

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仏教最大の要諦である縁起の理法、勝義空・吉祥空を学ぶ上で、誠にすばらしいダライ・ラマ14世師のご法話の内容であり、また、中観帰謬論証派の思想を学ぶ上でも実に有意義なる内容でございました。直接の猊下のご法話をお聞かせ頂いたわけではございませんが、翻訳本を通してという間接的にではあれども、この際にダライ・ラマ14世師の法雨に与れて幸甚の至り、至福なることでございました。

ダライ・ラマ14世師に改めまして最敬礼申し上げる次第でございます。

この浅学非才の未熟者ではございますが、これからも中観思想の学びを一歩一歩何とか進めて行ければと存じております。また、できうる限り早期に施本第六弾の執筆へと論考研鑽できればと考えております。


『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』大蔵出版
 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャツォ著
 マリア・リンチェン翻訳

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かつて仏教学会に一大センセーショナルを巻き起こした「批判仏教学派」のことにつきまして現時点におけます私の見解を補足させて頂こうと存じております。

誠に中観思想について強く興味を持って頂くための一つの入り口として、松本史朗先生の著書を紹介させて頂くことがあります。例えば、松本先生の著書「チベット仏教哲学」がその一つでありますが、他にも「縁起と空 如来蔵思想批判」・「禅仏教の批判的研究」、または、袴谷憲昭先生の著書「批判仏教」・「本覚思想批判」がございますが、両先生のそれらの著書の内容として、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定されていると一般的に思われているところでございまして、「批判仏教学派」と言われています。

両先生の真なる批判の意図するところにつきましては、なかなか容易には計り知れないものでございますが、本覚思想、如来蔵・仏性思想を批判・否定しているとしての前提にて、私の現時点での本覚思想、如来蔵・仏性思想の理解と致しまして、それぞれの思想は、あくまでも世俗諦における仏説の一方便として正しいものであると考えておりまして、そのあたりで、本覚思想、如来蔵・仏性思想を完全に否定しているのとは、見解を異としております。

ただ、世俗諦における仏説の一方便として正しいとは申しましても、その方便としての扱いやその思想へと至る過程についても、慎重に吟味しながら扱っていく必要性はあるのではないかと存じております。

もちろん、このあたりの精査につきましても慎重に「世俗諦と勝義諦の二諦」の解釈と平行して進めていかなければならないと考えております。

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仏教最高峰の論理学は、龍樹論師以来の中観思想、チャンドラキィールティ論師以来の中観帰謬論証派の展開を再構築したツォンカパ論師の思想であり、仏教最高峰の認識学は、唯識思想と中観論理学の統合を企図することに尽力したダルマキールティ論師の思想であります。ツォンカパ論師とダルマキールティ論師、二大巨頭の思想をしっかりと学ぶことは、実に有意義なることでございます。とにかく難解な両論師の思想を一歩一歩理解していければと考えております。

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ツォンカパ論師の中観思想において、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈における重要な論考として、「勝義無・言説有」があります。誠にここの理解を誤りなく進めれるかどうかがツォンカパ論師の中観思想を学ぶ上で非常に大切であります。

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倶生我執と遍計所執・・煩悩により迷い苦しみの輪廻を彷徨うこととなるこの二執着をいかにして離していくべきであるのかを精査検討していくことが、中観思想の学びにおいても非常に重要となります。いわゆる「人無我」と「法無我」の理解であります。

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日本の仏教は、誠に中観帰謬論証派の学びを徹底して進めての再構築が必要であると強く思う次第でございます。お釈迦様の原点への回帰を目指す上でもかなり重要度が高いと存じております。

中観帰謬論証派の学びのススメ
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/51597159.html

mixi「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティでは、かなり熱く深い議論が展開されておりまして、少しずつですが有意義なコミュニティへとなりつつあります。私は忙しさにかまけてしまい、論考コメントが少なくなってしまっていますが、何とか盛り返していければと考えています。

現在、mixiにて「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」のコミュニティを運用させて頂いております。現在、mixiは、既に招待制度を廃止し、誰でも自由に加入できるようになっています。

http://mixi.jp/

「仏教・中観思想・空思想を学ぶ」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4629752

仏教最高峰の論理学・中観思想・・龍樹(ナーガールジュナ)論師以来の「中観思想・空思想」の発展について全般的な学びを進めていくために、色々と論題を設けて、意見交換・討議を行って参りたいと存じております。ご興味のある方は是非ご参加下さいませ。

仏教最大の要諦「縁起」の理法・・増益(過剰肯定)と損減(過剰否定)を離れて、「縁起」のありようを理解することが仏教最大の一大事であります。これが非常に難しい・・特に「世俗諦」と「勝義諦」の「二諦」の解釈の難しさとも通じるところであります。とにかく、ツォンカパ論師の中観思想の学びを更に進めて参りたいと存じます。

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集中的に再読していく論著

『「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版』の再々読を開始しました。内容は誠に難しいですが、本当に良論であると感銘致しております。早くに読み終えて、『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』に取り組みたいと存じております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「チャンドラキールティの中観思想」岸根敏幸著・大東出版社
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究1」
「ツォンカパ 中観哲学の研究2」
「ツォンカパ 中観哲学の研究3」
「ツォンカパ 中観哲学の研究4」
「ツォンカパ 中観哲学の研究5」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ」
 テンジンギャツォ著・TenzinGyatso原著・福田洋一翻訳・大東出版社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館
『ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 』
 ダライラマ14世テンジンギャツォ著・マリアリンチェン翻訳 大蔵出版

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

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